試し読み

「食欲……ないのかな。具合悪い?」
 楽しくなどないだろうに、俺の機嫌をうかがって彼が懸命に微笑んでいる。
「俺は社会人になってからあまり朝食をとらなかった。ハナならそれぐらい知ってるよね」
「あ……うん」
「三十分長く寝てたことも忘れた? それとも知らない?」
「ごめん……調子に乗っちゃった。ごめんね」
 むかいの席にいる彼が、パンの音をだすのすら申しわけなさそうに畏縮して咀嚼をくり返している。彼が当惑している。あるいは傷ついている。
 紅茶を飲んで、隣のリビングの窓へ視線をむけた。……なにをしているんだろう、俺は。
 少年の食事が終わると、スーツに着替えて出勤の準備をした。
「かずとが外と家とで、コンタクトと眼鏡をつかい分けてるの好き」
 コートを着る俺の横で、少年はにこにこと明るい喜びをふりまこうとし続けてくれている。なのに〝好き〟という言葉が俺の苛立ちを増幅させた。
「今日は風呂掃除だからね」
「はい」
 彼を視界に入れないようにしながら足早に玄関へむかった。
 こんな態度じゃ駄目だろう。わかっている。ガキの八つ当たりにすぎない。知っている。ちゃんと、しっかりと自覚している。ならどうしたらいい。O型のおおらかで優しいはずの俺はどこにいった、え? ばかすぎるだろう。
 靴を履いて玄関のノブに手をかけ、思いとどまって、……はあ、と息を吐いた。
 ふりむくと少年がそこにいた。目をまたたいて、唇をひいてにぃと笑顔をつくり、小首を傾げた。
「……今夜、またでかけよう」
「え」
「車だす。……帰るの待ってて」
 花が一気に咲きほこるみたいに、彼の顔に本物の笑顔がひろがっていく。
「はい!」
 掻き抱いて腕のなかに包みこんで壊れるまでひとつになって、この笑顔を奪い去ってしまいたい。

 中学の入学式の日、蒼麻というクラスメイトに背後の席から声をかけられた。
 ──ぼくうしろだから、よろしくね。
 ぶかぶかの学ランに身を包んだ小柄な男で、笑った顔にはまだ小学生の初心さが残っていた。俺が無言でいるうちに、担任の教師が厳しい口調で、
 ──いま出席番号順で座ってもらってるけど、身長で調整しますよー。はい、きみたち変わって。
 と蒼麻と俺をしめした。
 蒼麻はすぐ『ははっ』と楽しげに笑い、
 ──前の席になっちゃった。よろしくね。
 と言いなおした。
 どういうわけか俺は自制するより一瞬先の刹那に恋に落ちた。迂闊すぎたそれが初恋だった。
 俺にはあのころ心に誓った事柄がふたつある。
 誰もこの手で触らないし、触らせない。
 正しい恋愛をして子どもをつくり、両親に孫を与えて罪を償う。
 このふたつだ。
 幸い蒼麻とは、彼が俺を呼びながらふりむいて手に触れてきたとき強くふり払ったのがきっかけで距離ができていった。
 嫌われているのかなんなのか……、というふうに戸惑いつつ、蒼麻が徐々に俺との関わりを断って友だちをつくり、楽しそうに中学生活を送っていくのを眺めて安堵していた。
 授業中にノートをとっているあいだの、黒髪の後頭部がこくこくと上下に動くようす、うつぶせて寝ている平らな背中、友人との会話に大笑いしている口もと、誰もやりたがらなかった文化祭委員に手をあげた責任感の強さ、体育の授業で怪我をした男子を救った行動力と、明るい眼差しと励ましの言葉──さまざまな姿をただ見つめるだけで想いに見切りをつけ、なかったことにした。やがて蒼麻のぶかぶかだった制服が身体にぴたりとなじんだころ彼に彼女ができて、そのまま卒業した。
 男が好きだと認めるわけにはいかなかった。ゲイにだけはなってはならない、と心臓を掴み抑えて一心に自制した。
 友人もつくらずに過ごした。他人に心を許すのも、他人を心のなかに招くのも、当然憎むのも恨むのも妬むのも危険だとわかっていたから事前に接触を断ち切った。
 母親の胎内から消えた弟と同様に、自分も亡い者として生きるべきだと思った。息をする資格すらない。幸福を得てはならない。存在しているだけで罪なのだと、償いのみを生きる理由にした。
 日々は鈍色にくすんで見えた。けれどじいちゃんとばあちゃんとハナの三人の傍にいるあいだは、やわらかくにじむ水彩画みたいな美しい色彩に、世界が彩られて光をまとっているように感じられた。あの家の庭の、花だらけの花壇のように。

 もしハナだったら、と想像する。この子が本当にハナなのだったら──。
 左側の助手席にいる少年は、ふふ、ふふ、と満面の笑顔をひろげつつ口をひき結び、頬のゆるみを堪えている。今夜も行き先は訊いてこない。
 じいちゃんは寡黙なひとで、小学生の俺を時々自転車のうしろに乗せ、公園や川辺へ連れていって遊ばせてくれた。
 俺はたいていひとりで逆あがりの練習をしたり、ジャングルジムのてっぺんにのぼってぼうっと空と地上を眺めたり、ひろった段ボールで土手を滑りおりたり、川辺で綺麗な石を探したりした。一方でじいちゃんはそんな俺をベンチに座って観察していたり、土手で手作りの凧をあげたり、葉笛を聴かせてくれたりした。
 おたがいにとくに目的があるわけでもなく、無為に時間を潰すのだ。
 しかし時間経過とともに色を変えていく空を傍らに、ただ気ままに過ごす時間は、自分が知る現実とはべつのひどく穏やかな異空間に佇んでいるような錯覚をした。
 普段は忙しなく感じる時間がゆっくりとながれ、恐ろしい人間や真実やおぞましい自分が、なにもかも嘘である世界──昨日嘆いた事柄も、泣き暮れた毎日も、何百年も昔の前世の残像か、あるいは幻覚だったのではないかと、〝こっち〟が現実なのではないかと、夢を見せてくれる理想郷。
 夏場の空はとくに美しさが顕著で、日が暮れるにつれ桃色から橙色に熟し、徐々に青が濃くなって夜のとばりがおりてくる。土手には背の高いススキが生い茂り、一緒に風に煽られながらいつまでも突っ立って夜への彩りの変化を肌で感じていた。息を殺して。短い髪と頬と鼻先と腕に夏の葉の香りを受けつつ、この夢の世界はもうおしまいだと宣告される瞬間までずっと。
「……着いたよ」
 サイドブレーキをひいて車をとめたのは、工場地帯のむかいにある人工海岸だった。正直なところ、身内でもない他人を連れて目的もなしにどこかへいくのは初めての経験で、身体中に緊張がまとわりついて強張っている。
「すごい素敵……!」
 車をおりた少年は車体のうしろにひろがる光景に瞳を輝かせた。笑顔の横顔に嘘はなく、ちゃんと喜んでくれているらしい。
「こっち」
 ハッチバックをあけて少年を招いた。なかには大きめなブランケットと冷温庫がある。
「座りな」
 先に自分が腰かけて、少年に赤チェックのブランケットをひとつ渡した。「はい!」と嬉しそうに微笑んだ彼も俺の左隣にきて、脚を外へ投げだす格好で並んで腰かける。
 ブランケットを膝にかけて「あったかい」と笑う彼に、冷温庫からだした温かいミルクティを渡した。「もっとあったかい」と俺を見てにっこりと小首を傾げる。無邪気すぎるほど無邪気だ。
 彼のダッフルコートの帽子をひっぱって被せ、自分も青チェックのブランケットを膝にかけた。
 しゃらら、しゃらら、と海岸から鈴の音を連想させる清涼な波音が聞こえてくる。その水音が周囲の騒音を吸いとって、眼前にそびえる荘厳な工場地帯のまばゆい光を際立たせている。
 巨大な工場は薄黒いシルエットになって極彩色に光り輝いており、やや距離のあるこちらからだとおとぎ話にでてくる城のようでもあった。
 上空へ突きだすボイラー、迷路のようにはりめぐらされた金属管、鉄柵。それらが眩しいほど強くまたたき、下方にひろがる海にも反射して夜光の水鏡になっている。群青色の夜空には長い煙突からもくもくあがる煙と炎も揺らめいていた。
「綺麗だね……」
 少年はミルクティのペットボトルを両手に包んだまま工場の光に見入っている。「飲んでいいよ」とうながしても「うん」とこたえるだけ。蓋をあけるでもなく、まばたきもせずにじっと夜の輝きを凝視している。瞳が光って、下瞼に涙のようなものがうっすら浮かび、潤んでいる。綺麗だった。
「……ありがとうかずと。ここにこられて嬉しい」
 光を見つめて礼を言う。
「……ここにいられてよかった」
 彼は、いま目の前にあるこの事実が、自分の瞳に、皮膚に、心臓に、しっかりと浸透してゆくのを己の存在のすべてで受けとめているような真摯さで呼吸をし、隣にいた。
 じいちゃんがいなくなったあと、社会人になっていた俺は免許をとってひとりでドライブへいくようになった。冷温庫とブランケットと虫除けスプレーを積み、じいちゃんといった、現実の隣にある理想郷へ逃避しにいく。
 たまにばあちゃんも誘って、箱根や熱海や伊豆の山並みと海を眺めにいった。ふたりで低い山を登ったり、海岸に座って海を眺めたりして、ひたすら無為に過ごした。
 ──お祖父ちゃんと育った田舎を想い出すな……。
 ばあちゃんはしみじみと微笑んでいた。
 ──お祖父ちゃんに夕飯のおみやげ買って帰らないとね。ふたりだけで楽しんじゃって悪いもの。
 死んだじいちゃんのために魚の干物やみかんを買って帰った。理想郷へ連れていってくれるこの車には、ばあちゃんとハナ以外誰も乗せたことはなかった。
「無防備すぎないか」
「え」と、彼が〝こちら〟へ戻ってきた。
「車に乗せられて、ひとけのない東京湾まで連れてこられて、俺に殺されるとか考えないの」
 少年の瞼が、す、としずかに据わった。微風が吹いて黒い前髪を左側にながす。口角があがり、唇だけが、ひどく鷹揚な微笑を描いていく。
「──かずとがそうしたいならかまわないよ」
 微笑む彼の瞳がにぶくきらめいた。
「かずとが幸せになれるなら俺は消えてもいい。辛いのは消えることじゃないから」
 まるで聖母のような穏やかすぎる表情をしている。
「……消える以上に辛いことってなに」
 ふふ、と今度はうつむき加減に苦笑した。
「内緒」
 肩すかしをくらって「なんだよ」と不快感をしめしたけれど、内心なぜかほっとしていた。
 冷温庫からストレートティをとって蓋をあけ、不機嫌を装ってぐいと飲む。
 ──かずとが幸せになれるなら俺は消えてもいい。辛いのは消えることじゃないから。
 他人のエゴによって生命を奪われて、納得できるわけがない。そんな理不尽な残酷以上に辛いこととはいったいなんだ。彼の言葉の意味がまったくわからない。なのにどうして俺はそれを聞かなくてよかったと思っている……?
 恩返しとはどういう意味なのだろう。なんでこの子はここまで俺なんかに献身的なのだろう。
「かずと、今日ね、俺散歩したんだよ。でね、」
 黙っている俺のかわりに少年が話しだした。
 太陽にあたって、ちょっとは運動しなきゃって近所を歩いたの。あ、もちろん鍵はしめていったよ。それでこのあいだ一緒にいったコンビニのほうにむかってったら、公園の桜の木のとこに野良猫がいたんだ。小さな白い猫でね、汚れてた。ご飯をあげたかったのになにも持ってなかったから、頭だけ撫でて帰ってきたんだ。けど、飼い猫だったのかな。寒いのに、あの子は元気かな……。
 少年の声はどこまでも明るく華やかで、俺を喜ばせようと気づかっている。朝は苛立ちに襲われた彼のそんな優しさも、この理想郷では不快に感じなかった。
〝ハナのようななにか〟──斉城さんは不要な〝その他〟の他人を名前で呼ばない。だが俺は少年に適当な名称をつけて呼んだためしもない。たとえば彼を個として認識したくなったとき、俺はなんと呼ぶのだろう。自分の心と口は、その瞬間彼に対してどんな形容を選ぶのか。
 彼のダッフルコートの帽子の頭が尖っている。触れたい衝動に駆られて無視をする。

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