試し読み

「ちゃんと思い出して」
 声を荒げて遮断された。
「いまじゃなくてもいいからゆっくり思い出してみて。怖いものたちはもう、ここにはいないから。かずとを責めるひとはいないから。いたら俺が退治するから」
 右の掌が温かい。じいちゃんとばあちゃんとハナ以外の他人に触れたのは何年……十何年ぶりだろう。体温はこんなに温かくて生々しくて、愛狂おしいものだっただろうか。
「……桃太郎みたいだね」
「え?」
 猫になったりパートナーになったり地獄で鬼退治をしたり、忙しい子だ。

 夕飯と風呂をすませたあと、自室側のベランダへでてスマホから電話をかけた。
 しばらくコールが続いて、今夜はもう寝たのか、と諦めかけたところで『はい、須賀です』と応答があった。
「……母さん、俺」
『一人っ? ねえちょっと昼間変な子がうちにきたんだけど誰よ、なんなの!?』
 ヒステリックな母さんの声に条件反射的に心臓が竦むのは、俺が本当にギャクタイを受けていたからなのだろうか。
「……先にいい? 留守電で言ってた、俺に相談したいことってなに」
『ああ……驚かないで聞いてね。お母さんたち、離婚しようと思ってるの』
 一瞬言葉の意味が理解できず、「え?」と茫然としてしまった。
「離婚……? え、どうして」
 弟が亡くなったせい?
『お父さんの暴力がひどいからよ。わたしもう耐えられないの。昔からだけど、お祖母ちゃんのその通帳の件があってから、兄弟で揉めてわたしにも八つ当たりがエスカレートしてね……』
 虐待、という明確な単語が、今度は後頭部の内側へ大きく押印された。
「……そうだったんだ」
 だが、理由は本当にそれ? 弟のことがすべての引き金じゃないの、と重ねて訊くことができない。うつむくようにうな垂れると、草履を履いたつま先が闇夜に覆われているのが見えた。スマホを持つ左手と、だらりと身体の横に落としている右手がだらしなく震えている。
 壊れていく。俺が関わるひとの関係や絆やなにもかもが。やっぱり俺は疫病神なのではないか──。
 頭上から夜の闇が重たくのしかかってきてふいに、くいと腰を掴まれた。触るな、と咄嗟に払い除けるようにしてふりむくと、俺のパジャマの裾を右手で握る少年がいる。俺を睨みつけている。
『ねえ一人、悪いんだけどあなたの家にしばらく住まわせてくれない? 母さんもうお父さんと一緒にいるの限界なの』
「え、うちに……?」
『ふたりでいたら気が狂いそうだわ』
 幸せに、円満に暮らしていると思っていた両親が、家庭内別居状態だった。とはいえうちで一緒に暮らさなければいけないのだろうか、それが息子の義務なのだろうか。俺が、虐待、を受けていたのが事実ならば、再び生活を監視されて手酷い躾を受ける日々が戻ってくるのかもしれない。
 たしかに痛かった。怒鳴り声は恐ろしくて内臓が一瞬でちぢんだ。寂しくて孤独で、自分はこの世に間違って生まれた人間なのだと、殴られる振動にあわせて一秒ごとに思い知らさ──、
「かずと」
 また服をひっぱられて我に返った。少年が厳しい顔で頭をふる。
『一人、ねえったら、』
 ──かずとの親がしていたのは児童虐待だよ。
 ──かずとはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのところへ逃げて正しかったの。
「ぁ、あ」と、ひきつる喉にどうにか息を吹きこんでげほげほと咳きこみ、声をとり戻した。
「……ごめん、母さん、うちは……部屋が、余ってない。嫌なら実家に帰ればいいんじゃないかな」
『え? ……はあ、あなたも父さん似なのね、冷たい子』
 うんざりした声音に、心臓がじくりと痛んで傷ついた。……大きく空気を吸って、震える喉に力をこめながらゆっくりと吐く。もう一度。……もう一度。少年が俺のパジャマを握る手に力をこめる。
 棒を入れたように硬直していた脚をどうにか動かすと、草履がベランダの小石をこすってじゃりと音を立てた。力みすぎたせいで軋む身体ごとふりむいて、彼にむかいあう。
 夜が怖い。世界に醜い自分ひとりだけがとり残されてしまったのではと恐ろしい妄想にとりつかれて闇に墜落するからだ。でもここには、光をまとって輝く少年がいる。
「母さん、あのね、昼間の子は、」
 この子は、
「ハナだよ。……ハナなんだ」
 ハナだ。
 おまえはハナだ。
 ハナでいてくれ。ハナだ、と言っていてくれ。
『どういうこと?』というふうな声が洩れるスマホを切って耳から離し、彼の背中に手をまわした。崖の下にさしのべられた掌に縋りつくように、ひき寄せて掻き抱いて折れそうなほど抱き竦めて胸の深くにしまいこむ。
 傍にいてほしい。この子無しでは俺はどうやら世界を正しく見渡せないようだ。ここにいてくれ。ここにいて俺の日々を照らして、すすむべき道を明るくしめしておいてくれ。
「──ハナ」
 そうしてハナでいてくれれば俺はきみに触れられる。愛することを赦されながら恋情は無いと自分自身を欺ける──。







「冷た~いっ」
 海岸の波打ち際で、ジーンズを膝まで捲りあげた少年が足を海に浸しながら笑っている。
 数日前満月だったようで、月は数ミリ欠けている程度。とても明るい夜で、打ち寄せる波と戦う彼の姿もはっきりと見える。というより、やはり彼は常に眩しい。彼のむこうで銀の電飾の束のように輝く水面も、彼が主役の映画を描くためにあつらえられた光の天使に見えた。
 ハッチバックに座って、光り輝く夜の海と美しい彼が彩るワンシーンを眺め、彼が笑ってふりむくたびに笑顔でこたえた。波を蹴るしなやかなつま先とまたたく飛沫、細長くのびた白い脚、潮風に煽られて後頭部から前方へ乱れながれる髪。
 そのうち両腕で身体を抱えてすごすご駆け戻り、正面に立って「……さむい」と洟をすすりながらしょんぼり訴えてきたから吹きだしてしまった。
「だから言ったでしょう」
 凍えるよ、と先に忠告はしておいた。聞かずに『いく』とはしゃいでむかっていったのは彼だ。
「ごめんなさい……」
 うつむいて震える彼が、親に叱られて沈む子どもに見えてきて胸に刺激が走る。
「謝らなくていい」
 黄色いパーカーの腹のあたりを握る小さな手をそっととってひき寄せ、右隣に座らせた。冷温庫に入れておいた水のペットボトルをとりだし「まだぬるいだろうけど」と彼の砂だらけの足にかける。
「もったいないよっ」
「いや」
 左足、右足、と水の減りを調整しつつ慎重にかけて砂を落とした。うぶ毛みたいな薄い毛しか生えていない足は稚くて、それでいて艶かしい。タオルをかけて「拭きな」とうながした。
「ごめんね、ありがとうかずと」
 ごめん、だけ聞きながして、彼が脱ぎ捨てていった靴下も渡す。背中にもブランケットをかけて抱き寄せ、彼が足を拭いて靴下を片方ずつ履くのを見守った。
「楽しかった?」
「めっちゃ楽しかった! 明るい夜の海はいいね、綺麗だし貸し切りだし」
 喜んでいるが、骨張った華奢な身体は冷えている。抱いている右手で彼の右腕をさすると、にぃと嬉しそうに照れて笑ってくれた。
「なかに戻って暖房で暖まろうか」
「ううん、もうすこし海見てたい」
 それならば、とパーカーの帽子を被せてマフラーも巻いてやった。手編みふうのオレンジ色をしたニットマフラーは、先日一緒にでかけて贈ったものだ。男には明るすぎるだろうかと思案したが、『どれと比べてもいちばん似合う』と唸ると、彼も『ならこれがいい』と幸せそうに微笑んだ。
「……夢の世界みたい」
 地平線上にのびてまたたく月明かりと波音、冷たい潮風を、全身で受けとめて彼が言う。
 細かくてボリューム感のない髪が額と耳のあたりで風に揺れている。眉毛は薄いのに、睫毛はつんと長くてまばたきも億劫そう。ぱちりとひらく大きな目は二重で愛らしく、光を発して輝いている。唇は寒さのせいかやや青い。
 彼の顔をここまでじっくり不躾に眺めたこともなかった。見つめているとあまりの愛らしさに吸いこまれて精神ごと奪われ、そらすという礼儀を忘れてしまう。頬と口端の怪我がすぐに治ってよかった。
 ふいに彼もふりむいて見返してきた。ほのかに笑顔を浮かべて、見つめあうことに照れず、臆さず、左右の瞳をにぶく輝かせながら時をとめる。やがて瞼をとじた。
 静止した瞼の先でも睫毛は整然と並び、唇はふっくらと青い。自分の口先をつけて覆い、冷たさがひたりと伝わってくる瞬間を想像すると、本当に唇がひやりと寒くなった。
 右手で掴んでいる彼の腕がブランケットとパーカー越しでも細く頼りなくて、触れている部分だけ熱い。奥歯を噛んで目をとじながらひき寄せ、彼の頭に顔を近づけて伏せた。すぅ、と吸う。
「わ、なに?」
「昔よく吸ったでしょ」
「え」
「猫は吸うものなんだよ」
 吸うふりで深呼吸をして心臓の鼓動が鎮まるのを待った。瞼裏の闇の奥でまだ恋欲が疼いている。
「おまえの腹に顔をつけて思いきり吸うと、まんまるい目で〝なに?〟って不思議そうな顔してた。獣っぽい匂いがしてあったかくて満足するんだけど、離すと顔面が毛だらけで嫌な気分だった」
「人間は勝手だなっ」
 怒られて、はは、と笑った。彼のマフラーと、パーカーの帽子の耳あたりもすぅと吸う。パーカーは自分のものなのに、マフラーもどちらも彼独特のミルク石けんっぽい香りがする。
「臭くない?」とくすくす訊ねてくるから、「うん」とうなずく。
「子どもみたいな匂いがする」
「ふうん……? おじさん臭くなくてよかった」
 無邪気に笑った彼も身体を捩って俺の腰に両腕をまわし、しがみついてきた。暖めてやるだけだから、と胸のうちで呟いて自分も両腕でしっかりと抱きしめる。
 彼は俺のすることもしないことも、行動すべてに一切の拒絶をしめさずにいてくれる。
「……愛してるハナ」

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