試し読み

 とうに日も暮れて、だいぶ暗くなった駐車場へむかいながら少年が言う。
「そうだね。滞在時間も長かったし……今日はきみがいたから」
 先を歩く彼の頭のむこうに、黒いシルエットになった山々と、葉音をさらさら鳴らす竹林がある。日中より静寂が増したせいか、川のせせらぎも強く耳に響く。
 少年がくるりとふりむいた。
「ならまたこなくちゃね」
 瞳を細めて光の粒を揺らしながら微笑む彼はただ単純に純真で、途方に暮れるほど清らかだった。
「……ありがとう」
「ふふ、お礼なんていらないよ。お祖母ちゃんは俺にとっても大事なひとだもん」
 風が吹いて彼の髪が後頭部から前方へながれて乱れた。音もなく薄明をむかえた空は群青の下方に橙をまとった静謐なグラデーションを描いていて、儚く遠い。
「ン……。ありがとう」
 ばあちゃんは彼の正体を追及しなかった。
 ──一人はなにを大事にしたくてそんな嘘をついたの。
 彼はなにを想って嘘をついているのだろう。
 ──俺、みんなが教えてくれた花の名前を憶えてるよ。オオアマナ。
 なぜ俺が話していない想い出の詳細まで知っているのだろう。
 ──またかずとと幸せになりたかったから。……俺、かずとだけなんだ。かずとが俺のすべて。
 彼が見ているのは俺ではないべつの人間みたいだ。
 彼の目的もなにもわからないことばかりだが、今日を終えてまたひとつ大きな確信を得られた。
「……俺はきみがいないと駄目らしい」
 ばあちゃんの哀しみも寂しさも、俺の怯えや孤独も救ってくれた。
 彼に近づいて乱れた髪に左指を通し、梳いて整えると、大きく澄んだ瞳で彼も俺を見あげてきた。人間の言葉など知りもしないはずなのに、こちらのなにもかもを見透かしているようだったハナの、ガラス玉みたいな瞳に似た目。その瞼を伏せて、そっと俺の胸もとに額を寄せ、彼はしずかな薄明のなかに溶けこむように口をとじる。


 少年が煮物の作りかたを憶えたころには、まだ若干ぎこちなくもあったが箸も右手で正しくつかいこなせるようになっていた。
 彼の細い指で日めくりカレンダーは毎日一枚ずつ千切られて日々はすすみ、俺もパン一枚の朝食が食べられるまでに胃腸を鍛えられていった。
「……おやすみかずと」
 夜のドライブをして光り輝くレインボーブリッジを前に散々キスをしたあと、冷めない高揚感と解放感を抱いたまま帰宅してベッドへ入った。キスはベッド以外の場所で、と暗黙の約束のようなものがあり、眠るときはおたがいなにもしない。越えてはいけないふたりのルールの一線がここにある。
「……おやすみハナ」
 常夜灯のともるうっすら暗いベッドのなかで、彼が微笑んで目を瞑るのを見届けてから自分も目をとじた。
 じいちゃんとばあちゃんとハナのいたあの家で俺に与えられた和室には、昔ながらの古いデザインをした四角い和風ライトがぶらさがっていた。紐をひっぱって三段階の調光が可能なライトなのだが、常夜灯が壊れていたせいで光か闇かしか選べなかったから、夜は文字どおり真っ暗だった。
 ガラス戸はあったものの外灯ひとつなく夜は自分の腕すら見えない暗闇で、ひどく恐ろしかった。
 家出したばかりのころは〝壊れているライトをなおして〟と乞える立場でもないと考えていたから、ただひたすらに我慢をした。
 弟と両親から逃げ、じいちゃんとばあちゃんにもどう接すればいいのかわからず、自分の手の力と自分自身の存在に怯えながら闇に包まれる。畳に敷かれた冷たい布団のなかで膝を胸までひき寄せて小さくまるまり、肩も背中も腰もつま先もきっちり布団で覆ってなにも入ってこられないよう防御し、目をひらいてもとじても漆黒でしかない空間で全身強張ってひたすら朝を待つ。
 人間は暗闇で一定時間放置されると精神崩壊する、と大人になってからなにかの本で読んで知った。けれどそもそも当時の自分の精神状態が正常ではなかったので暗闇はおのずとトラウマになった。
 ハナが俺の部屋へ入ってきて布団にもぐりこむようになってからだ、夜を怖がらずにやり過ごせる人間になっていったのは。
 ふと目をあけて、正面にいる少年の寝顔をいま一度見つめていると、彼も瞼をひらいて目があった。ぱちぱちと二度まばたきをしてから、照れくさそうに、ふふ、と笑う。
「……怖いの?」
 どうしたの、とか、眠れないの、とかではなく彼は的確に俺のトラウマを指摘する言葉を口にして左手をのばしてきた。
 ここには常夜灯もあれば、ガラス戸のむこうに外灯もあってそこそこ明るいうえ、彼の瞳には常に、どんな暗闇にいようとも光がにじんでいる。
「平気だよ」
 自分も左手をのばして彼の左掌を握り返す。
 自分が歩いている暗闇の人生には入り口しかないと思っていた。次々と痛みや絶望が汚水みたいにながれこんできてあふれて窒息しそうになる。底なしの暗い沼。じいちゃんとばあちゃんとハナがいるのはそんな闇の片隅にある安息の場所で、沼から這いでて会いにいくと呼吸ができるようになる。
 しかしじいちゃんとハナがいなくなり、ばあちゃんも遠くへいって、いままたひとりで暗闇に佇む時間が増え、孤独に蝕まれていた。そこにこの子が現れた。
 身内以外の他人にもかかわらず俺のことを知り尽くし、明るく笑って救ってくれる不思議な少年。
 誰なのか知りたくない。知るのが恐ろしい。でも心の傍へいきたい。きちんと彼自身を愛したい。
「……この手があれば大丈夫」
 本当に恐ろしいのは永遠に続く闇ではなく、縋って抱いた光が消える瞬間だ。



 とん、とん、と履き古したスニーカーで、夜の横断歩道の白線を踏みながら彼が歩いていく。
「俺にできる料理ってほかになにがあるかな~?」
 歩幅があわなくなってきて飛び跳ねるようにしてすすみ、よろめいてふりむく笑顔が無垢だった。
「……どうかな」
 出会ったときから履いていたのは星のワンポイントが特徴のスニーカーで、白いから汚れも目立っている。切れたかかと、泥汚れた紐。先日『今度靴を買いにいこう』と誘ったら断られた。
 ──……いいよ、まだ全然履けるし!
 口端をひきつらせて眉根に小さなしわを寄せつつ笑う表情はいたたまれなさげだった。
「鱈のバター焼きも教えてもらったでしょ? あとオムライスもふわっふわに作れるようになった。けどかずとを幸せにしたいのにすっかりお世話になっちゃってるから、料理ぐらいはさー……」
 彼の右手にある買い物袋のなかでパンが揺れてかさりと鳴っている。
「猫一匹ぐらい養えるよ」
 消えていくものより残るものを俺は増やしてほしい。
「明日やっぱり靴を買いにいこう。なにも責任を感じなくていいから」
 泣き縋るような声になって恥ずかしくなった。
「え。うーん、でもな……」
 夜道に輝く光のような白い線の上に立って、彼が言い淀んでいる。近づいてその左手をとり、先へすすんだ。
「仕事終わりのいつもの時間に駅で待ちあわせ、いいね?」
 彼の指先は冷たかった。細くて小さくて頼りない凍えた手を掴んで強引に歩きながら、俺は自分が怯えていることに気づいていた。ふたりで一緒に未来へすすんでいく靴を、欲しいと言ってほしい。
「……わかったよ。そのかわり新しい料理なにか教えてね? 約束」
 ぐっと胸を抉るほどの至福感がこみあげて、彼をいますぐ抱き竦めたくなった。衝動を押さえこむのがやっとで見返すこともできない。
「……うん、約束する」
 手にとれるものでなくとも、約束としてかたちが残るならそれもいいかと思える。人間でも猫でもなく、この光の塊みたいな茫洋と茫漠とした子を繋ぎとめておくのは本当に難しくて心が疲弊する。
「あ! ねえ見てかずと、今日あの犬すごいおとなしいよ」
 横断歩道を渡ってしばらくいくと、猛犬を飼っている家まできた。彼は犬小屋を囲う鉄製の柵へ忍び足で近づいていって、「わおん~」と小声で呼ぶ。前に吠えられて以来、彼は勝手に〝わおん〟とあだ名をつけて親しんでいる。鎖に繋がれた黒い猛犬は身体を伏せて寝ていた。余分のない洗練された細身の肉体、ぺたりと垂れた大きな耳と立派な鼻先。
「この子グレート・デーンかな? それともドーベルマン?」
「さあ……俺は犬に明るくないからなんとも。動物はハナのことしかわからないよ」
 柵の前にしゃがんだ彼が左手を入れて、「撫でてみたい」とゆっくり近づけていく。
「よしな、危ないよ」
 頑張ってもとうてい届かない距離ではあったが危機感を覚えてとめた。家も真っ暗で寝静まってはいるものの、飼い主に気づかれて怒られる恐れもある。
「犬は躾次第で変わるでしょ、きっと仲よくなれるよ」
 まるで小学生のいたずらのようだと感じながらもひどく緊張した。彼の指先の白く小さな爪を凝視して、自分の心臓が口内で鼓動しているみたいな錯覚をしつつ唾を飲んで息をとめる。
 もうやめよう、と言おうとして口をひらいたのと、猛犬の双眸がかっとひらいて飛びかかってきたのが同時だった。
「グワンアンヴワンワンワン!!」
「わっ」
 暗闇のなかで猛犬の鋭い牙が彼の手を噛みしめたように見えた瞬間、心臓が凍りついた。
「ハナ!!」
 尻もちをついた彼のダッフルコートがアスファルトにつき、棒きれみたいな左腕がコートの袖ごとぶるぶるふりまわされている。考えるよりも先に俺も彼の腕と身体をうしろから抱いてひいた。猛犬はうううと唸りながら興奮して頭をふり、彼の腕を食おうとしている。
「か、ずと……っ」
 腕のなかで彼の声が悲痛に響いたそのとき、全身が焼けるように熱く燃えて胸中で叫んでいた。
 消えろ──消えろ消えろ消えろ。
 許さない。
 この子を傷つけたら許さない。誰だろうと動物だろうとなんだろうと絶対に許さない。
 この子を冒す権利が誰にもないように、この子を俺から奪う権利も誰にもない。
 消えろ。
 俺はこの子を護りとおす。愛し抜く。傷つけさせない、誰にも。おまえにも。
「──消えろ」
 右手で猛犬の頭を掴んで言った。
「消えろ」
「かずとっ!」
 掌から徐々に獣の毛並みの感触と体温が失われていき、やがて唸り声も消失した。それからがしゃんと音を立てて、最後に首輪と鎖だけが地面に横たわった。
「かずと……」

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