試し読み

「俺がO型だから懐きやすいんじゃないですかね」
「あー、OとBって相性いいんだっけ」
 さくっと血液型占いの話だと理解できるほど大勢の女とこういう会話をしてきたんだな、あんたは。
「O型はどの血液型ともだいたい相性がいいんだよ。おおらかで細かいことを気にしない。でも血液型占いってのは信憑性ないからね、やっぱり須賀ちゃんの性格がいいんだよ。ありがとうね」
 不愉快さが全部諦念で消えてゆくのは、この、他人の操りかたの巧みさゆえだ。女癖の悪い駄目男のくせに、幼稚園児かと疑いたくなるほど恥ずかしげもなく素直に感謝を口にする。憎みきれない。
「血液型占いは信憑性ないって言うのもB型だって聞きますね」
「それね、はははっ。けど感謝してるんだって、心からさ」
「あなたはふたりだろうとひとりだろうと、強かに生きていけるでしょう」
 ふふ、と瞼を細めて斉城さんがハンサムに微笑んだ。
「須賀ちゃんは? 結婚したいとか恋人が欲しいとか考えないの」
 思考が一瞬停止した。
「あと三年して須賀ちゃんが三十になっても恋人ひとりいなかったら、俺と結婚しよっか」
 今度呑みにいこうか、と誘うのとなんら変わりない口調で言った。
「──お? 黙ってるってことは脈ありかな」
 冗談のはずなのに、ごく自然で真面目な眼差しと柔和な表情を崩さない。
「……三年もあれば、斉城さんは五回ぐらい結婚と離婚をくり返してるでしょう」
 かろうじて冷静さを装った。
「ははは、褒められると照れちゃうなー」
「褒め言葉だと思えるばかさが羨ましいです」
 ばかって言うなよ、と彼はふてくされて唇を尖らせる。
 ──帰る場所だよ? どこに寄り道しようと俺は麻衣子のところに帰りたいの。
 このひとの浮気相手はおそらく全員知っている。新人のころから忠実な部下としてついてきたせいなのか、俺が社内の人間と距離をおいているのを都合よく感じているせいなのか真意はわからないが、べらべらとなんでも話して聞かせてくれるからだ。根っこはやはり淋しがりやなんだと思う。
 しかしそのなかのひとりも名前を知らない。〝いまの子〟とか〝恋人〟とか〝後輩〟と形容した。このひとは奥さんのことしか名前で呼ばないのだ。奥さん以外の〝その他〟は、人間扱いすらしない。きっと俺のことも女性たちに〝部下〟と呼んで会話のネタにしているのだろう。
 ──……かずと。
〝ハナのようななにか〟である少年の声が聞こえた。
 ──……また会えると思わなかった。……もう一度、愛させてください。
 彼は俺の〝一人〟という残酷な名前をひらがなのまろやかさで呼ぶ。自己紹介もかわしていない、出会った最初の瞬間から毎日。……あの子はいまごろ家でなにをしているんだろう。
 食事を終えて伝票をとろうとすると、「いいよ」と斉城さんが手にしてスマートにレジへむかっていった。面食らって慌てて追いかけ、「ごちそうさまです」と頭をさげると、「はは」と笑う。
 店の外へでたら針のような冬風が頬を刺してきたが、空には愛嬌のあるうろこ雲がぽこぽこと帯を描いて鮮やかに晴れ渡っていた。
「冬の午後って感じだね、海にでもいきたいなあ……」
 斉城さんが鼻歌をうたいながら歩きだした。このひとが慰めたかったのは自分自身じゃなかったのかもしれないと、うしろをついてすすみながらぼんやり想像した。

「おかえりなさい、かずと」
 帰宅すると、少年が玄関まで真顔で迎えにきた。妙にかたい空気をまとっていて、違和感を覚えつつ「ああ」とこたえる。
 自室へむかうとついてきた。コートを脱ぐ真うしろで、じっとこっちを見てくる。……なんだ?
「そういえば、今日の昼どうした。腹が減ったんじゃない」
 ぎく、という効果音が聞こえそうな、あからさまな反応をして視線を横にながした。
「……いま言おうとしてた。ごめんなさい、我慢できなくてシチューの残り食べました」
 コートをハンガーにかけながら、呆れて肩が落ちた。「でも、」と少年が続ける。
「でも、お詫びに夕飯作ったから、うまくできたか見てみてっ」
「……べつに怒ってはいないよ。腹空かせて餓死されたほうが迷惑だしね」
「餓死、はしないだろうけど……ありがとう」
「夕飯ってなに作ったの」
 ネクタイもゆるめて、いったんキッチンへ移動した。整頓している調理器具やコンロ周辺を汚されたり、包丁で怪我をされたりするほうが困る。
「湯豆腐だよ!」
「……なるほど」
 コンロに小鍋がひとつだけちょこんと置かれていて、まわりを見まわしてもどこも汚れてはいない。というか湯豆腐なら汚れようもないか。
 桜模様の鍋の蓋を持ちあげると、昨日買った豆腐がまるごとひとつと、昆布が入っていた。
「ちゃんと出汁もとってるな」
「うん、きっと美味しいよ、ご飯も炊いたから一緒に食べよう」
 ふふふん、と得意げににぃと唇をひいて、ひまわりみたいに笑っている。温かい豆腐をゆずポン酢で食べるときの、ほんのりすっぱくてほくほくやわらかい食感が口のなかにひろがった。
 月曜日は嫌いだ。今日はとくに疲れたから、芯まで温まりそうな手作りの夕飯に思いがけず癒やされた。
「せっかくだから両手鍋に変えて白菜と豚肉も入れよう。ぶなしめじも買ってあったな」
「はあ~……いいね、美味しそうっ。じゃあ俺がやっておくよ! いい?」
「ああ、頼んだ」
 少年が冷蔵庫へむかい、「白菜と~豚肉に、ぶなし~」と口ずさみながら選びとっていく。つい小さく笑ってしまいながら、再び自室へ戻って着替えを再開した。
 湯豆腐に野菜と肉を加えた豆腐鍋は、心と身体を想像以上の至福感で満たしてくれた。
「すごいね~……お豆腐浮かべただけでこんなに美味しいなんて。人間の発想って天才だよね……」
 椅子にのけぞって腹を撫で、少年が幸せそうにうっとり目をとじている。白は汚れる、と注意したからか、今日は水色のパーカーを着ている。袖から白く細い指先だけをだして、空気を包むようにゆるく山形にまげて。
「今日はごろごろしてたの」
「うん……ごめんなさい、本棚の本を借りて読んでた」
「……へえ」
「なにか仕事があれば言って、明日からする」
 昨日そうしたように、洗濯や掃除は日曜日にまとめてするのが俺の生活スタイルだった。風呂だけは水曜日にも掃除をする。この子がハナであるならばそれを知っているはずで、月曜日はたしかになにも仕事がない。
「じゃあ明日は天気がよければ布団を干しておいて」
「はい!」
「明後日は風呂掃除」
「うん、わかってる」
 姿勢を正して、少年は熟知しているという軽やかさでこたえた。
「夕飯も食べたいものと作りかたを教えてくれたら俺頑張るよ、キッチンも綺麗につかう」
 テーブルにのった小さくて頼りない指を眺める。そばには彼用の、茶碗がわりのどんぶりと小鉢。
「……いい。帰ったら俺が作るから手伝いだけして。それより昼ご飯をどうにかしないと。豆腐鍋も全部食べちゃったから、明日は残飯もないでしょう」
「あ」
「コンビニでもいこうか」
 椅子から立って、空になった茶碗と汚れた箸をシンクへ運ぶ。

 冬の澄んだ夜空は、果てまで見渡せるほど広大で星も近い。
 隣で少年が群青色の空を指さして、「オリオン座」と笑う。
「俺オリオン座しか知らない。かずとはほかにも知ってる?」
「いや、全然」
 小学校の遠足かなにかでプラネタリウムへ連れていかれて、冬の大三角とか春の大三角という名を憶えた程度だ。星の位置や見つけかたなど忘却の彼方だった。
「ばあちゃんの施設があるところは星ももっと綺麗だろうな」
 なにも考えずに言ってから、あ、と意識が躓いた。
「そうか……お祖母ちゃんにもまた会いたいな」
 しかし少年は切なく感慨深げに横顔の瞳をにじませた。
 会えるのか、という問いが頭を支配して心を波立たせた。会えるのか、会えばぼろがでるんじゃないのか、ばあちゃんに会ったら逃げ場がないぞ、と次々と疑念が湧いてあふれて、焦燥に似た切迫感まで這いあがってくる。けれどその疑念たちは喉を圧すばかりで、やはり声にはならなかった。
 コンビニは自宅アパートから歩いて数分の場所にある。駅に近い住宅街にあるのに夜はひっそりとしていて客も少ない。
「好きなもの選びな」とうながすと、少年は唸って悩んだ。
「……でも、コンビニは割高だよ」
 小声で言って眉をゆがめ、うつむく。まるい頭のつむじが揺れている。
「言っておくけど、俺はハナの食事には金をかけてた」
「……う」
「ひと缶三百円近い缶詰もあげてたよ。ばあちゃんが『ジャンクフードだ』ってあげたがらなかったかりかりも、足りてようがかまわず毎週買ってた。趣味は猫餌買いって言ってもいいぐらいだった」
「わ、わかった、ごめんなさい、選びます」
 ええと、と棚を眺めながら歩き、彼はカップラーメンの列からプライベートブランドの比較的安いラーメンとうどんと蕎麦、それに「これいいっ」と百円冷凍食品のピラフやチャーハンをとってかごに入れた。
「本当にこんなのでいいの」
「うん、充分。あと食パンもいい? 六枚切りなら一週間いけるから」
 また頭のいい選択。
「いいよ。でもそれなら俺も食べようかな」
 いつも朝食は抜いていた。けど彼の食生活も考慮して、今後は朝もパン一枚ぐらい食べてから出勤してもいいかもしれない。

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