試し読み

「俺が?」
「……うん。俺、急に消えるかもしれないしさ」
 心臓にずきりと衝撃が走り、同時に緊張と冷や汗も背筋をのぼってひろがっていった。
「俺のせいでって意味か」
 少年は顔をあげて慌てて頭をふった。
「違う、かずととは関係ない、俺がこんなだからって意味だよ、変だから、俺自身が」
「俺だけの問題」と少年が強調する。「かずとは悪くない」とも言い募る。その異様なまでの動揺と勢いにぞっとした。……この子はもしかすると本当にハナなのかもしれない。
 部屋にこもって布団にくるまって泣き続けていたときに見た自分の手、母さんのふくらんだ腹と、掌で感じた弟の命の鼓動……──意識が過去へ飛びかけた刹那、「かずと」と左腰の服をひいて揺さぶられた。
「かずと、大丈夫? ごめんね」
 店内にながれていた軽快な曲が耳に戻ってくる。周囲にいる客の話し声や子どもの走る騒音も。
 見おろすと少年の大きな瞳が俺を見あげていて、眉も心配そうにゆがんでいた。細くて黒い前髪がひと束彼の目もとを邪魔している。
「変なこと言ってごめん」
 俺が〝戻って〟くると、少年はすっと俺から手を離して謝罪をした。
「どんな服でも嬉しいよ」
 そして言葉を言いなおして、にっこりと澱みなく微笑んだ。

 俺は自分の力をじいちゃんとばあちゃんとハナだけにうち明けた。
 知っているのは三人だけ。抱えきれなくなった自分をあずけたのはこの世界でたった三人だけだ。ほかにはいない。どこにも。ただのひとりも。

「見てかずと」
 帰宅すると、少年は買ったばかりのトレーナーとジーンズに着替えてきて、ソファでスマホをいじっていた俺の前でくるりとまわった。「ふふ」と覚えたての踊りを披露する子どもみたいに両腕をひろげて揺らしながら無邪気に笑い、ぶかぶかの真っ白いトレーナーごと身体をぎゅと抱きしめる。
「ありがとう……大事にする」
 幸福を胸いっぱいに抱こうとしているようなしぐさで、ぬくもりに満ちた微笑みを浮かべている。掌の半分を袖が覆い、肩や腰まわりの生地もふくらんで白いトレーナーが身体からはみだしている。
 本当は何歳なんだ、と喉まででかかった疑問が、なぜかでていかなかった。
「これから夕飯なんだから脱いできな、白いからすぐ汚すよ」
「はい。料理はなに作る? 俺手伝う」
「そうだな……シチューとか」
「嬉しい!」
 この子がハナだ、と認めたわけではない。しかし少なくとも〝ハナのようななにか〟だとほとんど本能的に信じ始めてしまっている。
 そんなことありえない、と常識や理屈を考えればわかるのに、否定し続けるには難しい事柄もあるうえ、俺は、この世の中に常識も理屈も超えた不可思議な出来事があるのも身をもって知っている。
「かずと、先にお風呂のお湯はりもしておくね」
「……ああ」
 風呂場のほうから『お風呂のお湯はりを、開始します』と機械的な女性の音声が聞こえてきた。「お願い、します」と真似してこたえる少年の楽しげな声も続く。廊下から自分のいるリビングまで少年の笑い声が反響する。ハナがいたときのように他人の声と気配があふれて家が狭く感じられる。
 スマホをテーブルに置いてソファを立ち、キッチンで料理を始めると、少年もとんとんとんと床を鳴らして戻ってきて隣に寄り添い、「手伝う!」とにぃと笑った。
「そこに用意しておいたから、じゃがいもの皮剥いて」
「はい!」
 丸ざるに入っているじゃがいもをとって、ピーラーで真剣に丁寧にしょり、しょり、と剥いていく。その横顔の瞳が、ハナのビー玉みたいに大きくて美しい瞳にすこし似ている。
 彼はまた黄色いパーカーに戻っていた。どういうわけか、夏の太陽や深夜の外灯っぽい明るい色がよく似合う。



 そろそろ昼休憩だなと焦り始めたころ、「須賀さん電話です」と事務の女子社員に呼ばれた。
「二番に、お母さまから」
 一瞬逡巡したあと、はい、と受話器をとって応答した。
『──一人?』
 母さんは電話の第一声で必ず、相手が本当に俺なのかを確認する。「うん」と短くこたえた。
『お義母さんの具合はどう?』
 繕った心配声で訊く。肩に受話器を挟み、キーを打つ手を動かしながら「元気だよ」と教えた。
『認知症のほうは?』
「さあ……いまのところ俺のことは名前も顔も憶えてくれてるけど」
『わたしたちのことはわからないって言いたいの』
 棘のある声音。
「可能性はあると思うよ」
『しかたないじゃない、いろいろ忙しいんだし』
 俺を責めて、誰に言いわけをしているんだろう。
「母さんはともかく、父さんたちはちょっとぐらい顔をだしてもいいんじゃないの」
 ため息が聞こえた。
『父さんたちも難しいのよ……兄弟が三人もいると』
『あの三人は仲が悪いし』『長男夫婦を放ってわたしが通うのも変でしょう』と軋轢やいざこざや保身を語り始める。
「ごめん、仕事中だから切るよ」
『待ってよ、あなた自宅の電話もいつも留守電じゃない、携帯電話の番号ぐらい教えてよ』
「すみません、そのうち」
『ちょっと、』
 受話器を戻して、会話を聞いていたのであろう周囲の社員たちの好奇の気配を無視しようと試みる。パソコンの液晶画面とむかいあう格好で顔を固定し、まったく頭に入ってこない文章とグラフを睨みつける。
「──なあ須賀、聞いてくれよ~……俺さ、後輩との浮気がばれちゃって昨日から離婚の危機なの。慰めてくんない?」
 突然うしろから部長の斉城さんが現れて、小声で寄り添ってきた。
「……なにをすればいいんですか」
「そこは須賀が考えてよ。昼メシおごってくれるとか、呑みにつきあってくれるとかさ?」
「昼メシでお願いします」
「ラッキー」
 慰めなど必要だとはとうてい思えない上司が、右手でガッツポーズをつくって「じゃあ外いこう」とにっかり誘ってくる。まだ仕事を続けたかったのに、と胸のうちで舌打ちをしてしかたなく応じ、キーボードから手を離した。

 血液型占いを全面的に信じているわけではないが、この斉城征治という部長は一般的に言われるB型の性格の、教科書みたいなひとだと思う。自分勝手で好奇心旺盛で純粋で、情が深く淋しがりやなのに飽きっぽい。たぶんハナより猫のイメージにも近い気がする。
「──後輩ちゃんはさ、大学のOB会で再会したときから〝先輩、先輩〟って懐いてくれるのがよかったんだよなあ……会社だとあまりないじゃん、先輩呼びって。俺ほど偉くなっちゃうととくに」
「はあ」
「あとさあ、もう立派な大人なのに身長が百五十センチしかなくて、小動物みたいで可愛かったわけ。パパ活かな? って感じの背徳感もよかったな、もちろんセックスもよかった」
 おまえどこにも危機感や反省がないな、とつっこむのを我慢して、蕎麦をつゆに浸してすすった。
「……で、奥さんは今度こそ離婚するって感じなんですか」
 このひとの浮気はいまに始まったことじゃない。
「どうかなあ……慰謝料とかどうのこうの面倒になったら嫌だな……今回も許してくれないかな?」
 最低だなおまえ、と言うのを堪えて「俺は奥さんじゃないのでなんとも」と返す。
「でも俺さ、麻衣子がいちばん好きなんだよ、愛してるの」
「〝いちばん〟とか言ってる時点で終わってるんじゃないですか」
「ばか、帰る場所だよ? どこに寄り道しようと俺は麻衣子のところに帰りたいの。わかる?」
 ばかはおまえだ。
「あ~離婚とか無理だな~……怠いし、淋しいし」
 十六も歳上のアラフォー上司にふざけた弱音というか愚痴というか、を吐かれながらひたすら蕎麦を食べる。彼は食事をする気があるのかないのか、右手に箸を持ったまま左手で頬杖をついてわざとらしいため息をくり返している。
 綺麗に切り揃えられた髪も、縁のない眼鏡も、清潔にアイロンされたスーツも、やや高価な左手の腕時計も……人間価値マイナスのプライベートとは真逆に、知的で有能な上司に見える。
 実際このひとは優秀だ。飄々としているのに部下をしっかり見ていて面倒見もよく信頼されている。顔面も整っていてスタイルもよく、一部の人間にとっては、彼の仕事と私生活のアンバランスさこそ魅力的にうつるのかもしれない。部長で、手が届かないかと思いきや分け隔てなく接して親しくしてくれるうえに、夜だけふたりの秘密をくれそうな危うい魅力を匂わせる。
「……せっかくおごりなんです、食べたらどうですか」
「うん……そうだね。ありがとう須賀ちゃん」
 ちゃんづけになった。
「須賀ちゃんって、俺がどんな人でなしだとしても赦してくれるよね」
「赦してるわけじゃないですよ」
「絶対、話聞いてくれるじゃん、メシもおごってくれるし」
「まあ上司なので」
「ははっ、そうそうしかも上司に対して正直で失礼なの、いいよねそういうところ。甘えたくなる」
「ちゃんと困ってますから」
「困ってるとか言っちゃって、ついてきてくれるしさ~。嬉しいし好きだよ、須賀ちゃん優しいね」
 奥歯を噛みしめて暴言だけは我慢した。

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