試し読み

 まだ自分の腕を掴んでいる彼の手ごとひき寄せて、いたたまれなさげに眉をゆがめる哀しそうな怒り顔を覗きこんだ。間近で見ると愛らしさがより鮮やかで目眩がした。
「かずと、」
 左手で彼の右頬を覆い、左頬にくちづける。怒ってふくらんでいる頬の感触が知りたかった。
「ごまかそうとしてる」
 目をつりあげて睨めつけられ、その表情もしっかり見つめた。うるんだ瞳、歯を食いしばる口。
「……今日一日、生まれて初めて幸せに浮かれて過ごした。上司にも呆れられたよ」
「ぇ……」
「じいちゃんとばあちゃんとハナと暮らしてたあいだも幸せだったけどそれとは種類の違う幸せで、初めてだった」
 詳しくきちんと説明をくり返した。これは恋の幸せだと。人生で初めての経験だったと。
「……狡い」
 包んでいる彼の頬も、唇とおなじぐらいやわらかい。じいちゃんとばあちゃんとハナには失礼だが、若い人間の、他人の頬をこの手で自ら触らせてもらうのも初めてだったから、ひどく驚いた。ふかふかでつるつるしている。噛みしめてみたい。
「その怒りは、俺が言うのもおこがましいけど、〝嫉妬〟っていうものなの……?」
 会話を持ちかけておきながら、辛抱ができなくてもう一度左頬にくちづけた。
「そうですけど。そうに決まってますけど?」
 頬にある俺の手を上から覆って、至近距離で彼が睨みつけてくる。
「……そうか。正しくない言葉だと思うけど、ありがとう。……嬉しいよ。かなり、なんていうか……舞いあがってます」
 経験と知識のなさが情けなくて苦笑してしまった。それでも彼が自分にむけて嫉妬の炎を燃やし、激情をぶつけてくれているのが嬉しくて、奇跡に感じることをとめられなかった。
 彼は目をまるく見ひらいて長い睫毛を揺らしながらぱちぱちまばたきし、頬を紅潮させた。
「狡すぎる……言いわけにもなってないし、いきなり甘くて狡い」
「言いわけ。ああ、あのメモは会社の新人の子がくれたもので、持て余して困ってた」
「……。……え、言いわけそれで終わり?」
「終わり。ほかはとくに話せることもないよ。なんでメモを渡されたのかもわからない」
「ひと目惚れみたいなこと? ……そりゃ、モテるのはわかるけど」
「わからないでしょう。ひと目惚れというか、昨日休憩室でふたりになってしまって、俺のかわりに彼女が立派に会話を繋いでくれてた。ほんとにそれだけで、迷惑しかかけてないから」
「俺はなんとなくわかる。かずとは格好いいし、黙ってても優しさがにじみでるひとだもん」
「……それ、ぬいぐるみレベルの話だね」
 ばあちゃんも有麻さんもこの子も、他人を寄せつけないようにして生きている俺を優しいと言う。他人の瞳の奥には宇宙以上に未知の世界がひろがっている。
「〝かずと〟ってぬいぐるみを抱きしめたがってるひとはきっといっぱいいるんだよ」
 拗ねているみたいに俺から視線をはずして、唇を尖らせている。これだけ近いと薄い眉毛のながれも、そっぽをむいている数本の睫毛も、瞳の光の粒もよく見えた。心が眩んで、気づいたときには彼の唇を自分の唇で覆っていた。
「……朝の続きがしたかった。しても許してもらえるかな」
 右手に持っていたバッグを離して彼の腰を抱いた。
「……行動と、言葉が逆ですよ」
 声は怒気をはらんでいるが表情は崩れてきている気がする。口先に沁みた彼の唇の余韻が朝の感動を呼び起こして、もっともっと、と欲も疼き始めている。抑えきれないまままたくちづけて吸った。
「許してほしい……頼むから」
 乾いていた彼の唇が自分の唾液で濡れて、すべらかになっていた。夜になっても朝と変わらず彼の唇はやわらかくて、湿って光る綿菓子のような姿が扇情的でもある。下唇を舌で舐めあげてふくらみをしゃぶる。心臓がどくりと大きく波打って痛いぐらい胸を圧迫し、意識も薄れかけて、彼の唇しか見えなくなっていく。
「許し、なんて……請う必要、ないんだよ」
 彼も俺の上唇を唇で挟んで吸ってくれた。
「俺ずっと……ずっと前から、かずとのものだったでしょ……?」
 淡いライトの光だけが海の波のように足もとを浸している室内で、彼の瞳をきらめかせる光の粒が増えていた。泣いているのか、それがどういう意味の涙なのか、よくわからないことがもどかしくて両腕で強く抱きしめ、顔の角度を変えて口をひらいておたがいの唇がしっかりぴったりと重なるように覆ってむさぼった。
 自分のこの手は破壊しか生まないけれど、唇でなら彼を守れるのではないかと必死に、想いをこめてくちづけた。指同士を絡めてかたく繋ぎあわせるように舌を搦めあった。彼とひとつになるために、掌のかわりに自分のすべてで彼に届こうとした。
「……かずと、」
 彼の唇が離れていきそうになって、追いかけて口先を吸い続けていたら、「ふふっ」と彼が笑い始めてキスしづらくなった。どうしたのかと口を休めて見返すと、「きて」と腰を抱いてひかれ、そばにあるベッドへ一緒に座らされた。
 彼の細い腕に思いのほか強い力でコートを掴まれ、肩からおろされて中途半端に脱がされる。訝る俺に笑顔をむけながら、続けて彼は自分のオレンジ色のパーカーをたくしあげて脱いでしまった。Vネックの白いTシャツ姿になって、それも両手をかけて脱ごうとする。
「待って」
 咄嗟に腕を掴んでとめた。
「いい。……これ以上は、幸せ過多だよ。充分だ。……もらいすぎる」
 意識が揺らいでいたせいで、そして室内が薄暗いせいで、彼の白い肌と存在は美しく輝く菩薩像のように見えた。彼の腕をおろしてTシャツも整え、自分の腕にわだかまるコートを脱ぎ、ひとまずそれを肩にかけた。
 彼は困惑気味に小さな眉根を寄せている。
「……もらいすぎるってなに」
 綺麗な瞳に詰問されるのもいたたまれず、意味もなく左指で鼻筋をさすりながら言葉を探す。
「……俺にはきみが神々しすぎる。本来俺は幸せなんて感じてはいけない人間なんだ。なのに今朝から我慢が利かなくて……甘えさせてもらってる」
 言葉にすると自分の愚かさが実体を得たように顕著になり、自戒も芽生えた。
「だけど……きみが前に、言ってくれただろ。ふたりだけのルールのこと。もしよければ、これだけ、させてくれないかな。一緒にいたら、もう俺は我慢ができそうにない」
 キス、という言葉を口にするのもおこがましく感じて抽象的な表現になってしまった。
「これだけはしていい、って……ふたりのルールにさせてほしい」
 いままで可能な限り我が儘を言うのを堪えて生きてきた。もっとも大きかった我が儘は、じいちゃんとばあちゃんとハナのいた、あの家へ逃げさせてもらったことだけだ、と自認している。
 学生時代は流行のゲーム機や携帯電話も諦めた。友だちをつくるのも諦めた。恋をするのも諦めた。じいちゃんとばあちゃんとハナが自分を赦して傍にいてくれる、それだけが、償いの人生を生き抜くために与えられたなけなしの幸福だと定めて、不相応ながらも授受してきた。
 両親に大学まで通わせてもらえたし、就職して大人になると車まで買えた。運にも味方をされて、弟を消した罪人の分際で人生を謳歌してしまっている。これ以上求めることは許されない、許されるはずもないとわかっているのに、それでもどうしてもこの想いだけは欲張るのをとめられなかった。
「だってきみも、いつか消えるつもりなんだろう……?」
 俺が手をくださなくとも、この子はここから消えていく。
 いずれ失う幸福ならちゃんと不幸にすりかわるのだから、我が儘に貪欲に求めさせてくれないか。唇だけでいい。この手で彼のすべてに触れたい、欲しい、とまでは願わない、だからどうか。どうか許してくれ。
「……ふ、ぅ、」
 そのとき彼は光を集める大きな瞳から涙粒をほろりほろりと落とし始めた。彼の瞳のなかで揺れていた光がこぼれているのかと錯覚するほど、きらめいて綺麗な、宝石みたいな涙だった。
 うぅ、ふ、ぅ、と呻いてしゃくりあげて号泣するだけで、言葉はなにもでてこない。
「なにが哀しいの」
 優しい声を努めて訊ねた。しかし返答はなく、慟哭がひどくなるだけだった。
 彼の手や膝にも、ベッドのかけ布団にも、涙がぱたぱた落ちてシミになっていく。泣きすぎて顔が赤く紅潮して、ひどく辛そうで、自分のこの手にできることなどなにもないだろうとわかっていたがただ見ていることも限界で、抱き寄せて胸にしまい、背中を撫でた。
「うぅ……かずと、かず、……あ、ぁ、」
 抱きしめるとまたさらに泣き声が激しくなった。指先をたどって彼のしゃくりあげる振動と震えも、ハナが逝った瞬間の痙攣した身体のようにじりじり伝わってくる。どうして彼がこんなに泣くのか、なにが辛いのか、まるでわからない。この手ではやはり彼を苦しめることしかできもしない。
「ふ、うっ、うぅ……っ」
 泣き声をあげてはいけない、とでもいうふうに、嗚咽を噛みしめながら涙をこぼしているようすが痛々しかった。力いっぱい泣きながら、身体は弱々しく脱力していく。
 誰が、なにが、ここまで彼を哀しませているんだろう。
 傍にいて自分が慰めになるのかどうかもわからないまま、彼の息苦しげな呻き声を聞きながらただ彼の背を撫で続けた。こんなことしかできない自分は無力だ。情けない。好きなひとひとり護れない、生きている価値もない──彼の泣き声が心臓に響くたびに自分の無能さを思い知った。役に立たない掌で彼の背筋を震わせる号泣の振動と、体温を感じていると、掌から水がこぼれ落ちていくみたいに彼の痛みを受けとれないことが怖くもなった。だけど抱きしめ続けた。彼が温かく癒やされるよう、祈りながら背と頭を撫で続けた。どれほど残忍な掌だろうとも彼に触れて不器用にも愚かにも慈しみ、労り、包みこむことをやめられなかった。



 渋滞をさけて高速道路を走り続け、左手に海がひろがった瞬間少年は「海だ!」と声をあげた。
「かずと、窓あけてもいい?」
「……かまわないけど寒いよ」
 夜のドライブではしょっちゅう海辺へ遊びにいっていたが、昼間眺めるのは初めてだった。
「うわー……綺麗……」
 助手席にいる彼を盗み見ると、サイドウインドウを全開にして縁に両手をかけ、後頭部の髪をふらふらはためかせながら海に見入っている。首にはオレンジ色のマフラー、華奢な背中には黄色いパーカーとダッフルコートのふたつの帽子。海は陽光を受けて銀色の光を散りばめ、美しく輝いている。
「風邪ひかないようにね」
 今日は土曜日。これから俺たちはばあちゃんのいる施設へいく。
 ──……本当に平気なの?
 いきたい、と言いだしたのは彼だった。
 ──うん。……大丈夫だよかずと。
 彼はたまに見せる妙に頼もしい微笑みを浮かべてうなずいた。だから俺もそれ以上訊ねなかった。
 ハンドルを握って前方へ視線をむけ、海岸沿いを走り続ける。
 ──一人はなにを大事にしたくてそんな嘘をついたの。
 昔何度か聞いたばあちゃんの言葉が脳裏を過った。
 ハナは自分をかまってほしくなるとこちらの気をひくためにテーブルから物を落としたり、教科書やパソコンのキーボードの上にどしんと座ったり、寝ている耳もとで『なあー』と叫んだりと、アピールをしてきた。その日も俺が居間のテーブルで勉強している横で、俺の消しゴムを何回も落としていたずらしてきて、無視していたらじいちゃんの眼鏡を落とすという反撃にでてレンズを割ってしまった。そして俺はじいちゃんとばあちゃんに〝自分がやった〟と嘘をついた。
 ──一人じゃないでしょ。黙ってないで言ってごらん、それは誰のための嘘なの。
 ばあちゃんの顔は怒っていなかった。でも疑問符をつけない詰問に、逃げるのを許さない絶対的な圧力があった。
 ──……ハナと、遊んでやらなかったのは……俺だから。
 うつむいてこたえると、ばあちゃんは俺を抱きしめて頭を撫でた。
 ──……一人は優しいいい子だね。
 そうして『ハナはすぐに叱らないとなにが悪かったのか理解できないから、次は放っておかないで、いけない行為はきちんと教えてあげること』と諭してくれた。
 バレンタインにちゃんとチョコをもらっている、と毎年ごまかしていたのがばれたときも、誕生日にわざと遅く帰宅して、友だちが祝ってくれた、と幸せなふりをしていたときもおなじだった。
 ──一人、なにを大事にしたかったの。

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