試し読み

「有麻さんはなにをしていたんですか」
 あ、険のある口調になったかもしれない。叱りたいわけじゃないのだが、と自戒していると、彼女はうつむいて泣きだしそうな悲痛さで唇を噛み、スカートの端を握りしめた。
「……すみません、なんか。戻ります」
 立ちあがって足早に去ろうとした彼女のセーターを、咄嗟に「待って」と掴んでしまった。
「ひゃっ」と彼女が驚いてふりむく。セーターがのびている。
「ごめん、でも責めたいわけじゃないから、どうぞ、座って」
 セーターから手を離して、ひとまず彼女をソファへとうながした。かわりに自分が立って「ちょっと待ってて」と自販機でレモンティを買って戻り、彼女に渡す。
「俺が話につきあってもらったってことで、ゆっくり好きなだけ休んでください」
 仕事内容かひとづきあいか、彼女がなにかしら悩みを抱えているのを予感した。救う気はないし自分にそんなことができるとも思わないが、職場の後輩となると見捨てるわけにもいかない。
「……すみません」とレモンティを受けとった彼女が、細長い指でペットボトルを包んでいる。少年の体温色の爪と違い、人工的なピンク色のマニキュアが塗られて艶めいている。
「……須賀さんは結婚なさるんですか」
「え。しませんよ」
「あ……すみません。このあいだお電話で、その……お話ししてらしたので、ご予定があるのかと」
 母さんとの会話か。有麻さんが精いっぱい話題を探して、俺を気づかってくれているのがわかる。
「両親に親孝行をしなければ、と考えているだけです。それが孫だと思っていたんですけど、そうでもないのかなと……迷ったりで」
「え……結婚しないのに、親のために、子どもをつくろうと考えていたんですか?」
「結婚相談所にいかないととは思ってましたよ」
 有麻さんが顔をしかめて非難的な表情になり、見返してくる。
「ええと……有麻さんの言いたいことはなんとなくわかります。すみません」
 存在しない結婚相手の女性に、〝ふざけるな〟と憤懣をむけられているようで畏縮してしまった。彼女を前にしていると自分の妄想でしかなかった〝親孝行のための妻〟が生々しい現実に変貌して、全世界の女性に蔑視されている錯覚をする。
「根本的に順番が逆だと思います」
「……はい」
「須賀さんが愛する女性と出会って、結婚したいと感じたら夫婦になって、ふたりとも子どもを欲したなら神さまから授かって、そしてご両親が喜んでくださるんですよ」
「……はい」
「親孝行のために犠牲になる女性が可哀想です」
「……おっしゃるとおりです」
 叱責が胸に刺さる。沈黙のなかふたりで紅茶をすすった。
「そんなに、なんというか……ご両親に追い詰められているんですか?」
 再び問いかけてくれた彼女の表情には同情が浮かんでいた。
「……ちょっと複雑で、うまく説明できません」
「……。すみません、立ち入った話を。でも……須賀さんはモテそうですよね」
 口のなかのストレートティを一瞬遅れて飲みこんだ。
「わかりやすすぎますよ、そのお世辞」
「え、お世辞じゃないですよ。単純に格好いいし、優しいですし」
 有麻さんが視線をはずして焦ったような素ぶりを見せる。
「……ありがとうございます」
 こちらの協調性のなさやコミュニケーション能力の欠如について言及せずにいてくれるところが、まだ二十歳そこそこの社会人ながらとても大人だと感じた。
「有麻さんの悩みを訊くべきかと思案したんですけど、聞いたとしてもなにもできませんでしたね。俺のほうがあなたに気をつかって諭してもらって、慰められているんですから」
 情けなさで苦笑いが洩れた。有麻さんはやや瞠目して見返してくる。
「……須賀さん。そういうところですよ」

 最寄り駅に着いて電車をおりた。ホームを歩いて階段をあがり、改札口へむかう。一歩すすむごとにコートの左ポケットに入っている一枚の紙切れが重量を増しているような気がしてくる。
 ──須賀さん、わたしのケータイの番号です。よろしければ。
 帰り際、エレベーターに乗る直前有麻さんにさしだされて、狼狽しているうちに扉がしまり始め、そのまま受けとってしまった。社内の人間だから蔑ろにはできないし、かといって社外で親しくするつもりもない。彼女も俺が電話をかけるとは思っていないだろうが、〝もしもの未来〟への切符を託されたこと自体、荷が重かった。恋愛的な要素も含まれているとしたらなおのこと。
「かずと、おかえりなさい。今日もお疲れさま!」
 ドアをあけて家へ入ると、少年がいつものように駆け寄ってきて笑顔で迎えてくれた。
「……ああ」
 ひまわりに似た明るく愛らしい彼の肩に今夜も縋りたかったが、なぜか触れてはいけないような抵抗感が芽生えて、靴を脱いで横をすり抜け、自室へ移動した。
「毎日忙しすぎて疲れた……?」
 うしろから彼が澄んだ声で心配そうに話しかけてくれる。
「今日はかずとがこの前美味しいって言ってくれた野菜スープ作ったよ、温まるよ」
 じゃがいもとにんじんとキャベツとウインナーが大きくざく切りにされてごろごろ入った、コンソメ味のスープだ。
「天気もよかったからまた布団も干した。きっと気持ちいいはず」
 ふりむいて彼の腰に両腕をまわして掻き抱いたらどんな感触がするだろう。どんな匂いとぬくもりに包まれるだろう。
「あ、そうだ聞いて。今日ね、また散歩にでかけたんだ。そうしたらこのあいだ話した白猫と会えたんだよ。男のひとがいて、缶詰の餌あげてた。飼い主ってわけでもなくて、そのひとも気になるからたまに餌を持っていってあげてるんだって」
「男……?」
 クローゼットの前に立ってバッグを置いた。少年は隣で「うん」とうなずく。
「大学生だって言ってたよ。ひょろっとしてそこそこ格好いい感じ。近所に住んでるって」
 ふふ、と口端をあげて幸せそうに笑っている。無垢すぎて遠い笑顔だった。
「今度はそいつの家にいくのか」
 自分の口からでた言葉に自分で驚いた。
 ばつが悪くて視線をはずし、コートに手をかけて着替えを始める。ハンガーをとってかけようとすると、「かずと」と横からスーツの裾を掴まれた。
「俺がいたいのはかずとの傍だよ。かずとがいないと幸せになれない。かずとだけでいい」
 心臓を直接射るような真剣な瞳が美しくきらめくほど、今度は不快感がふつふつ湧きだしてきた。
「……べつにいい。そんな弁解しなくて」
 彼の腕をふり払ってコートをかけた。ネクタイもゆるめてはずす。
「俺の本当の気持ちだから」
「そう」
「本心だから」
 縋りつくように怒鳴られても見返さなかった。
「疲れてるからやめてもらえる」
 苛立ちと自省が腹の底で綯いまぜに蠢いて気分が悪い。視界に彼を入れないよう努めながらジャケットを脱いでクローゼットへしまうあいだも、右頬に彼の視線が刺さる。
「……かずと、」
「もういいから」
 着替えを中断して彼の肩を掴み、強引にむきを変えてダイニングへ誘導した。
「食事にしよう」
 どうして彼に対する激情は心の箱におさめて捨てることができないのだろう。十数年かけて会得した生きる術さえも、彼にだけは通用しない。
 ずっと目をあわせず、不機嫌な態度をとったまま食事を終えて風呂もすませた。彼になにをしてほしいのか明確な答えも導きだせないくせに、ただただ幼稚な拒絶をふりかざしてしまう。
 ドライブへでかけてまたふたりで理想郷へ逃避すればこの無駄なわだかまりも霧散したのかもしれないが、それも癪で行動にうつせなかった。彼の訴えを遮断しておいて、きみの想いと行動で俺を癒やせ、というふうな、傲岸で非道な憤りが体内で暴走して抑えることができない。
「……かずと、」
 ベッドへ入って背中をむけると、うしろから呼びかけられた。目をとじて息をひそめて一ミリも身体を動かさないよう緊張しつつ寝たふりをする。
 その次の言葉はなんだ。
 無視を決めこみながら耳を澄まして待った。夜の静寂がうるさい。太陽の匂いに噎せそうになる。
 やがて背中のパジャマを握られた。左手か右手か、わからないが片手でひっぱるように強く握りしめられて、どん、と最後に心臓の裏あたりを軽く殴られた。しかしそれだけで会話が始まるでもなく沈黙が続き、なんなんだと困惑しているうちにだんだん意識が眠りに吸いこまれて落ちてしまった。


「かずと!」
 耳に爆弾を放りこまれたのかと驚いて目が覚めた。裸眼で視界も悪く、ぼやけた世界でまどろんでいると、いきなり身体を仰むけに翻されて両腕を押さえつけられ、口にやわらかいものをつけられた。ふ、と間近で鼻息をかけられて、唇か、と気づき絶句する。
「おはよう」
 拘束を解かれて彼が挨拶を残して去り、濡れた口先と自分だけ放置された。……なにが起きたんだ。ベッドに大の字に転がったまま茫然とする。
 ひとまず出勤準備をしなけば、と混乱の先にまともな判断力をとり戻し、ベッドからでて洗面所で顔を洗って歯を磨いた。眼鏡をかけて鏡にうつる自分を確認する。……この口に彼の口がついたのか。さっき。今日。人生で初めてキスをした……? 俺が?
 理解が追いつかない。
 なかったことにしよう、と結論をくだしてダイニングへ移動し、彼が朝食の準備をしている傍らで自分のマグカップを手にした。棚から紅茶のティーバッグもとって、彼が用意してくれている電気ケトルでお湯をそそぐ。
「かずと」
 トースターにパンをセットした彼が、右横から俺の顔を覗きこんできた。
「ねえかずと」
 どうしてか見返すことができない。
「子ども」
 電気ケトルをシンクに置いたのと同時に右腕を掴んでひかれた。一瞬で彼が胸のなかへ入りこんできて両腕を俺の首にまわし、強引にひき寄せて唇を近づけてくる。
「ば、」

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