7月のユキ
「――結生、お盆休みはどうする」
		「え、お父さんのところにいくでしょ?」
		 なんでそんなことわざわざ訊くのさ、と首を傾げたら、緑さんは唇の端でふっと小さく苦笑して、嬉しそうに、泣きだしそうに目を伏せた。
		「……それ以外」
		 そしてそう言う。
		 緑さんは俺が彼のお父さんに対して家族として接すると、いまだにちょっと感謝というか、他人事めいた感情を見せる。なんだよばか、と思って、笑いながら彼の腰に両脚を巻きつけた。
		「それ以外? 青森のほかにもどこかいくってこと?」
		「せっかくの休みだろ。いきたいところないのか?」
		「あ~、いきたいっちゃいきたいけど……どこもかしこも人がいっぱいいそうじゃね?」
		「いるだろうなあ。まあデートスポットは完全にカップルと家族連れだらけだろ? 映画館もショッピングも厳しいな。旅行も、近ごろ国内は外国人観光客でホテルが予約いっぱいだって聞くし。いっそ海外でもいくか」
		 ベッドの上で緑さんも俺に襲いかかってきて、彼の腰に脚を絡めたまま仰むけに倒された。覆い被さってきた彼が俺の首筋に顔を押しつけて、こすりつけて、甘えながらはしゃぐから、俺もくすぐったくて「えははは」と笑う。
		「結生、いこう海外!」
		「へふふっ、もう~……海外ってすごすぎじゃん。ハワイとかいくの?」
		「どこだっていいよ、おまえがいきたいところ選べ」
		「ちょーっ、お金かかるんだからどこでもとか簡単に言うなし」
		「俺相手に金の心配をするのか?」
		 めっちゃ得意げな顔で見おろしてくる。そうだよな、海外くんだりまでいくことになったら俺がだせるお金の限界があるぶん、緑さんに負担をかけちゃうんだよな。
		「んー、やめよ。俺パスポート持ってないし」
		「とればいいだろ」
		「青森も海外旅行もってなったら疲れちゃうしさ。だいたい、緑さんは毎日仕事で残業だってしてるんだもん、休みの日まで旅行でふりまわすの嫌だよ。お盆のあいだはここにいるから、毎日近所の買い物にいったりしてまったりべたべたしよう」
		 緑さんの下唇が、むっとへの字になった。
		「不満だ」と表情どおりの言葉が洩れてくる。
		「いーじゃん、同棲気分で。俺らラブホぐらいしかいったことないし、近所デートしよーぜ」
		 にししと笑いかけて緑さんの両頬を両手で上げたり下げたりして撫でたら、変な顔になってもっと笑えた。「ははっ」とへらへらしている俺を見て、そのうち緑さんもつられて吹きだし、唇にめちゃくちゃなキスをしてくる。
		「やはは、ばかっ」
		「来年おまえもうちで働きだしたら、海外なんていけなくなるかもしれないんだぞ。ふたりでおなじ日に有給とるわけにいかないしな。いいのか?」
		 ンン……。
		「いいよ。まったり過ごそーぜまったり」
		「なんだよ、結生にとびきり楽しい想い出つくってやりたいのに」
		「俺、緑さんと一緒にいられればどんなだってとびきり楽しくって嬉しいよ?」
		 無理して遠くにいかなくったって、近所デートでも充分わくわくする。なに言ってんだろ、この人は。
		「ったくおまえは……もっと俺とのつきあいに貪欲になれよ」
		 呆れられた。
		「どういうこと? 毎日一緒にいて、昼前にぐだぐだ起きて一緒にシャワー浴びて食事してさ、それでまたぐだぐだべたべたして、夕方近くになったらデートがてら買い物いくでしょ? で、帰ってから夕飯作って食べて、セックスして寝んの。めっちゃくちゃ贅沢じゃね? 自分たちのこと以外なんにも考えなくていいんだよ、超天国じゃん!」
		「ん~……まあな」
		「ほら。ほらよ、ほら」
		 今度は俺が得意げに緑さんの頬をつんつんしながら笑ってやったら、複雑そうな顔になった緑さんにまたキス攻撃をされた。ふへはは、唾液で濡れるよばか。
		「結生の言うとおり、たしかに平凡でありきたりなデートって俺らしてないんだよな。ラブホ以外は羽田ぐらいか」
		「羽田空港? あんときはギリ恋人じゃなかったし、ノーカンじゃね?」
		「ノーカンにされるとラブホしかいってないことになる」
		「あとは青森ね」
		「それも親父と一緒にいただけだろ。……駄目だなこりゃ。とりあえず明日デートするか」
		「明日っ?」
		 明日は七月四日の水曜日で、俺はもうほとんど大学にもいかずのんびり過ごしているけれど緑さんは仕事だ。
		「いいの?」
		「俺が誘ってるんだよ。仕事終わるのがたぶん七時ごろになるから、そのあと食事しよう」
		「うん、する!」
		 やばい、めっちゃ嬉しいよデート!
		 待ちあわせの駅も決めて、食べ物もお味噌汁が飲めるように和食ってことで約束する。
		「結生はほんと和食が好きだよな」
		 緑さんが俺の前髪をよけて額をまるだしにしながら言う。
		「そうだね。好き嫌いはないけど夜は白米が食べたいな。腹にしっかりたまる感じがいいよ。あと、お味噌汁も飲まなきゃだし」
		 額にキスされた。……緑さんが微笑んでいる。また泣きそうな切なげな瞳をしていて、喜んでくれているのがわかる。
		「……俺も明日楽しみにしてるよ」
		 うん、とこたえて、俺も緑さんの唇に自分の唇を近づける。
『結生、ごめん。ちょっと遅れそうだから駅前にある喫茶店に入って待っててくれるか。すぐ迎えにいく』
		 駅にいたら緑さんからメールが届いて、『オッケー! 大丈夫だよ、ゆっくりでいいからね』と返事をしているあいだもうきうきだった。
		 彼氏が遅れてくる、っていうこのシチュもデート感があってよくね? うへへ、とにやけてゆるむ頬を隠しつつ、緑さんに指定された喫茶店へ移動する。
		 夏の夜は繁華街を往き交う人たちもどことなく陽気で、街がいつもりよりにぎやかに感じる。夜風は涼しくなってきているものの、日中太陽に炙られて熱くなったアスファルトから熱気が浮きあがり、まだ若干蒸し暑くもある。
		 はやくクーラーがきいてる店に入ろ、と足早に信号を渡って店へむかい、ドアをあけた。
		「いらっしゃいませ」
		 あ、と俺が小さく息を呑んだ瞬間、相手の男性店員もおなじように、あ、という顔をした。
		 やばい。
		「……本宮君」
		 ――冗談じゃないよ。ホモって尻孔つかうんでしょ? そこまでは無理、くさそう~……。
		 店長だ。
		「おひさしぶりです……いま、ここでお仕事なさってるんですね」
		「ぁ、ああ。あの店は閉店してしまってね。……まさかまた会えるとはね」
		 短く清潔感のあるヘアスタイルになっている以外、外見に大きな変化はない。相変わらず穏和な空気をまとっていて、小首を傾げて優しく微笑んでいる。……昔この笑顔が好きだった。
		「えっと、ひとまずこちらへどうぞ」
		「あ、はい」
		 奥へうながされて、「あの」と声をかけた。
		「すみません、待ちあわせで、あとから人がくるので、よろしくお願いします」
		 店長は一瞬、おや、というふうに目をまるめてから、「かしこまりました」とにっこりうなずき、俺を四人がけの席へ案内してくれる。メニューをくれた彼が一礼して去っていくと、自然と肩の力が抜けて、自分が緊張していたことに気がついた。
		 ……なんで緊張する必要があるんだ。もう、俺には緑さんがいるのに。
		 ――そんなクズに泣かされるのも癪だから今日のこれで終わりにしろ。
		 うん。もうトラウマなんかじゃないよ。
		「すみません」
		 手をあげると、再び店長がきてくれたのでアイスキャラメルラテを注文した。店長は「かしこまりました」とまた丁寧に頭を下げて、にこと笑んでから去っていく。
		 店内にはウェイトレスさんもふたりほどいるけど、こりゃ俺のテーブル担当は店長になったっぽいな。てか、この店でも〝店長〟なのか? よくわからない。知らなくてもいいんだけど。
		 緑さん、はやくこないかな。
		 スマホを持って『ライフ』をひらき、自分が育てているモンスターを眺める。と、突然ガシャンっ、とカウンターのなかからグラスが割れる音が響いて、俺もほかの客もびくっとした。
		「すみません」とウェイトレスさんと店長が謝りながら、ふたりで片づけている。なんだか気になって、スマホ画面とカウンターを交互にちらちら見てしまう。
		 バイトしてたころ、俺もコーヒーカップを落として割って、迷惑かけたことあったな。
		 ――手を怪我しないように気をつけて。
		 ――すみません、店長……。
		 助けにきてくれた彼に優しく声をかけてもらって、嬉しかったっけ。
		 めちゃくちゃいい人だった。あったかい人だと想ってた。あのひどい暴言があの人の口からでたなんて、改めて考えてみても信じられない。けど、現実だからな。
		 右手にしていた指輪を左手につけかえた。
		 やがて注文したラテを店長がはこんできてくれて、「どうぞ」「どうもです」とテーブルにおいてもらっていたところで、ちょうど緑さんがやってきた。
		「あ、すみません、連れがきました。――緑さんっ」
		 手をあげて緑さんを呼ぶ。彼も俺に気づいてふっと頬をほころばせ、近づいてくる。
		「お連れの人……」と、店長がなにか言いかけたとき、緑さんが「悪い、待たせた」とテーブルにきた。……ん? 店長なんて?
		「飲み物、まだきたばっかりか?」
		「ぇ、うん、そう」
		「じゃあせっかくだから、それ飲んでからいくか」
		 緑さんも俺のむかいの席につく。
		「ただいまメニューをお持ちしますね」と店長が言うと、緑さんは「あ、いえ」と手をふった。
		「これ、俺も一緒に飲んじゃうのでいいです。すみません」
		 店長がびっくりしたように目をまんまるく見ひらいている。
		「ひとり一品、注文が必要でした、かね? すみません」と緑さんも首を傾げる。
		「ぁ、いえ、……ごゆっくりどうぞ」
		 微妙にキョドったようすで頭を下げ、店長がすごすご離れていった。獲物を横どりし損ねたハイエナみたいなうしろ姿……お連れの人、がなんだったんだろ。
		「甘ったるいな」
		 緑さんは俺のキャラメルラテを飲んで、顔をしかめている。眼鏡のずれをなおす指のしぐさ、走ってきてくれたのか、すこし乱れている髪。夏でも汗くさいどころかさっぱり爽やかな香水の香りをただよわせている。今夜も格好いい。
		「緑さん、俺まだそれ、ひとくちも飲んでなかったんだけど」
		「ああ、悪い。喉が渇いて」
		「飲むのはいいよ、でも文句は言うな」
		「文句じゃないだろ、ただの感想だよ。キャラメルラテは子どもコーヒーだ」
		「子どもコーヒーってなんだよ、もう」
		 奪い返して飲んだら、たしかに甘かった。けどこれがちょうどいい。コーヒーをブラックで飲めちゃう緑さんと違って、俺は子どもってことか、知ってるよ。
		「怒るなって」と緑さんが眉を下げて苦笑し、俺の髪を右手で掻きまわす。大きな掌が、髪をぐいぐい梳いてくる。「んーっ」とグラスを口から離した。
		「ばか、こんなとこでいちゃつくな」
		「べつにいちゃついてないだろ?」
		「いちゃついてるよ」
		「触っただけじゃないか」
		「触るのもいちゃいちゃして見える」
		「嬉しいくせに。赤くなってるぞ~、ほっぺた」
		「はっ? 嘘だ。嘘でしょ?」
		「はははっ」と緑さんが笑う。俺は手でぱたぱた顔を扇ぐ。はずいっ……。
		「俺に変なことして嗤われんの緑さんだかんな」
		「だったらべつにいいだろ」
		「だから、よくないの」
		「厳しいなあ、個室の料亭予約しておいてよかったよ」
		「なっ、料亭っ? すごい店選んでくれたの?」
		「いってからのお楽しみ」
		 ぱち、とウインクされた。
		「はやく飲んじゃうぞ」
		 またグラスを奪われて、緑さんに甘いラテをぐ~っと一気飲みされてしまった。
 店をでるとき、お会計も緑さんがしてくれた。彼の左手には薬指に指輪がある。店長もそれに気づいたようすだった。
		「またのお越しをお待ちしております」
		 丁寧に頭を下げる店長に、俺も「どうもです」とこたえて店をあとにする。
		「……なんか、あの店員やたらと慇懃じゃなかったか?」
		 緑さんが不思議そうにしている。
		「そう?」
		 なにも言わないのもあれだし、あとでゆっくり話そうかな。どうだろう。もうどうでもいいって気もする。なんにせよ、店で言ってたらこの人確実に喧嘩売ってたよな。……なんか、そんなふうに確信できるのも幸せな証拠っていうか、贅沢っていうか。嬉しい。
		「……俺、緑さんに会って、やっぱちょっと変わったみたい」
		「ん?」
		「愛されること知っちゃった」
		「なんだいまさら」
		 緑さんがおかしそうに苦笑している。唇を噛んで困ったような顔をして笑うこの顔も好き。
		「食事したあとはドライブしよう。なんだかんだで、俺今日一日浮かれてたよ」
		 また幸せをくれようとしてる。俺もどうしたって顔がゆるんでいく。全部この人のおかげ。
		「うん!」