エデンの太陽
- 著者
- 朝丘 戻
- イラスト
- カズアキ
- 発売日
- 2019年7月
- ISBN・品番
- 978-4-86657-270-3
- 定価
- 本体価格741円+税
- 判型・仕様
- 文庫判
誰もが誰かの太陽になれる――
人を癒やす人間になりたいと願ってデリホスで働いていた勇は、心に傷を負った青年・穏陽と出会う。彼の孤独や誠実さを知った勇は「客とホスト」として関係を深めていくが、その温かな時間は些細なすれ違いとともに終わりを告げる。時が経ち、レンタルショップ『エデン』で再会したふたり。次第に勇は穏陽の望む太陽みたいな男を志すようになるけれど、恋をしたせいで心は欲で汚れるばかりで――。
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BLレーベルで作家復帰して10年目の朝丘戻先生!
新刊発売に合わせ、記念にスペシャルSSをいただきました!
「あめの帰るところ」と 「アニマルパークシリーズ」 です。
これを機に、是非本編と一緒にお楽しみください…!
▽「あめの帰るところ」記念短編SS
あめの帰るところ――花火のあめ
夢を見た。
――先生。
どこなのか場所はわからないが、目の前に、俺の名前を呼ぶ千歳がいる。
――能登先生。
周囲は真っ暗で、どうしても場所はわからない。
しかし彼がやわらかそうなセーターにズボンの、懐かしい制服姿でそこにいるのははっきりと見てとれる。
だからあめちゃんだとわかった。
――……先生、泣いてるの?
は、と目を覚ましたとき、室内には自分ひとりだった。
ふたりがけのソファに座っている。
正面にはバルコニーへ続くガラス戸があって開け放されており、真っ白いカーテンが風に吹かれてふわり、ふわり、と揺れ動いている。
それをまどろんだ意識でぼんやりと眺めながら、ここは自宅でもない、と思い出した。
木造の、洒落たロッジの二階だ。
カーテンの隙間から覗く空は薄明で、太陽の余韻が赤橙色の影をのばしているが、上空からすでに夜が降りてきていた。
そうだ。
いまはお盆休みで、千歳とふたりで花火大会を楽しめるという、小高い丘の上のロッジへ泊まりにきたんだった。
「……のんた~ん、起きた?」
千歳の声が響いた。
ソファの上で姿勢を正し、「ああ、うん」と目をこすりながらこたえたら、がさがさと乾いた音を鳴らしつつ千歳が左隣にやってきた。
大量のお菓子が入った買い物袋を持っている。
それを正面のテーブルにおいて、「ふふ」と俺に笑いかけた。
「そろそろ始まるから持ってきたよ。やっぱり花火観るときはお菓子だよね」
ひひ、といたずらっぽく笑んで、テーブルにお菓子をならべていく。
飲み物は、パックジュースふたつ。
「……あれ、パックジュースなんて買ってたっけ」
「ん? これは俺が買っといたよ」
「大人なんだから、お酒でもよかったんじゃない?」
「えー嫌だよ、お菓子とあわないし。はい、のんたんはいちごね」
「いちごも、一緒に食べるお菓子を結構選ぶよ?」
「うっさい、文句言わないの。はい、かんぱーい」
ストローを通したいちごジュースを持たされて、千歳のジュースと乾杯した。
まるであの日をなぞっているようだ。
「千歳、俺の膝の上においで」
「重くていいなら」
「重みを感じたいんだよ」
「しかたない人だなー……」
頬を紅潮させて軽蔑するような目で俺を見返し、はあとため息をついた千歳は、俺の脚のあいだにすとんと座った。
「これなら重くないし、膝のとこにいられるでしょ?」
「はは。うん、完璧です」
左手で千歳のお腹を抱いて支え、いちごジュースとお菓子を味わいながら花火を待つ。
まばたきのあいだに世界が早送りされているような速度で、気づくと空の暗さが増し、夜が濃くなっている。
「本当にこの部屋から花火観えるのかなあ……」
千歳がそうつぶやいたとき、どん、と遠くで音が響いて光の玉が尾をひきながら空へのびていった。
ぱっ、と上空で大きく咲いて、金や赤や緑の円を描く。
ちかちかまたたいて、ゆったり落下しながら消えていく。
「始まった! すごい……綺麗ー……」
ひとつ咲くと次々と放たれて、色とりどりの火の花が弾けてひらいて咲き誇り、雨のように散っていった。
遅れて届く残響が腹を圧迫する。
千歳の顔をうしろから覗きこんだら、「ん?」と目をまるくして見返された。
「花火を観てる千歳が見たい」
「なっ。……ちゃんと花火観なさい」
「花火も千歳も観たいよ」
「すけべ~」
「すけべって。まあ否定しないけど」
千歳のTシャツのなかに左手を入れて首筋を噛む。
「あっ……」と色っぽい声が洩れて、調子に乗ってやわらかい皮膚を吸ったら左手をぺんと叩かれた。
「いたい」
「せめて花火のあとでっ」
声は怒っているものの、耳まで真っ赤に染まっている。
「千歳はいつまでもうぶだね」
「ち、がう……なんか、こういう素敵な場所で、するのって……ロマンチックで、どきどきするっていうか……」
「可愛い」
「……ばか」
抗議してくる千歳の後頭部に唇をつけてくすくす笑った。
千歳の髪の匂いがする。艶があって細かく、やわらかい髪。
目をとじて、ほんの一束だけ食んだ。
「……泣いてないよ」
囁いて頭の古傷に唇をつける。
「ん?」と千歳が半分ふりむいたけれど、なんでもないとこたえて抱き竦めた。
花火が夜空を明るく照らしている。
輝きと音が星の存在をひととき忘れさせるぶん、流れ星のような火が勢いよくすっと飛んで、音とともに巨大な花になる。
連続して打ちあがると、花束みたいな錯覚をした。
夏の夜空に一瞬だけ浮かびあがる光のブーケ。
「千歳とふたりで見るものは、ひとりで見るより何億倍も美しく輝くな……」
「キザのんたん」
「本当に。千歳がいるから俺の世界はきらめいてるんだよ」
「……。うん、ちゃんとわかってるよ、俺もおなじだから。匡志さんがいないと、世界が真っ暗になる」
照れたようにぼそぼそ告白をくれる千歳を、胸のなかにしっかりと入れた。
夢のなかで見た、暗闇の世界に佇むあめちゃんが脳裏を過る。
「大丈夫。真っ暗なところになんかいかせない」
「ン……俺も、いかせない」
千歳の華奢な身体を抱きしめて頬にもくちづける。
千歳も俺の腕を掴んで「ぎゅ~っ」とはしゃいで寄り添ってくれて、ふたりで笑いあう。
「のんたん……やっぱり、ベッドいこっか」
まだ真っ赤な耳のまま千歳が誘ってくれたから、つい小さく吹きだしてしまった。
「笑うなっ」
「ごめん、嬉しくて可愛くてたまらなかった」
「ばかにしてる……」
「してないよ。うっきうっきしてるよ」
千歳の身体を傾けて唇にキスをすると、やがてゆっくり瞼をひらいて俺を見つめた千歳が、細い指で俺の泣きぼくろを撫でた。
「……一緒に、幸せでいようね」
照れて潤んだ瞳で、真剣な告白をくれる。
夢に現れた千歳は、あの留守番電話を残してくれたときのあめちゃんだった。
先生を満たせていないようで不安になる、と。
離れていると自分の非力さを強く感じる、と。
ごめんね、と。
そう言ったあめちゃん。
だけど歳を重ねて俺と恋人として過ごし続けてきてくれたこの千歳は、もうそんなこと言わない。
もう一度唇を重ねて、深く求めあうキスから、おたがいの唇をしゃぶりあうじゃれあいのキスに変えつつ、ふたりして笑って額をこすりつけあった。
それから千歳の身体を抱きあげて、うしろのベッドへ移動した。
花火の音が鳴り響くなか、千歳を横たえて自分も上へ身を寄せる。
明日も天気のいい一日だと聞いていた。
この丘の上のロッジで、夜明けには鴇色に輝く空を眺めようと、千歳とふたりで約束している――。
▽「アニマルパークシリーズ」記念SS
アニマルパークシリーズ―7月13日のソラ
『アニマルパーク』のアバターができる仕草は、課金するか恋人登録をするかしないと増えていかない。
――『ふははは』
――『はははは』
白ネコのヒナタと白トラのユキはどんな環境でも遊びを考えるのが得意だ。
ばた、と仰むけに寝転がれる仕草を利用して、どちらが先に寝られるかを競いながら笑っている。
――『あ、いまのは俺がはやかったね!』
――『えー違うよ、俺のスマホは通信環境がちょっとアレなだけで、タップしたのはユキより俺のほうがはやかったよ』
――『なんだそのどうしょもない言いわけは。素直に負けを認めろよな』
――『今度リアルで会ったときまたやってよ。通信環境がおなじ場所で』
――『負けず嫌いな奴~』
白いぼろぼろハムスターのヨルが『ふたりは今日も楽しいね』と笑う仕草をする。
俺らのなかではヒナタこと小田日向だけがふたつ年下だ。
ユキこと本宮結生、ヨルこと神岡明、そしてぼろぼろ白ウサギのソラである俺の三人は同い年。
そのせいか、日向に対しては三人とも弟を可愛がる兄貴という感覚が少なからずある。
日向自身、リアルで義弟がいて普段は自分が兄だからなのか、もともとの性分なのか……俺たちといると、すこし甘えただった。
――『おい日向。で、今夜俺らを呼びだしたのはなんでなんだよ』
――『あ、そうだった』
寝転がったままユキがヒナタに訊ねて、ヒナタも思い出したように反応する。
――『今夜みんなを呼んだのは相談事があったからなんだ。七月の十三日って「アニパー」がリリースされて八年目の記念日でしょ? だから新さんとふたりでお祝いしたいなと思ったんだけど、みんなはなにかする?』
ヒナタの頭上に浮かんだ吹きだしのチャット文字に、はっとした。
そうだ、八周年……。
『アニパー』内でも七月に入ってから記念の特別なイベント部屋ができてたくさんのユーザーが集まり、限定の洋服を買ったり、紐をひっぱってくす玉を割ったり、輪投げや射的のミニゲームをしたりして、連日賑わっているようすだった。
――『そういや八年か……俺は「アニパー」ができた直後から大柴さんと仕事してたけど、あっという間だったな。記念日っつっても、うちの緑さんは「アニパー」のお祝いなんてしてくれるかなあ』
――『ああ、氷山さんって大柴さんのこと嫌いだもんね』
――『進行形でお世話になってるから「アニパー」自体に恨みはないだろうけども……そうだな、俺も緑さんと出会った大事な場所だから、ふたりでお祝いしたいな』
――『そうなんだよ! 俺は「アニパー」がなくちゃ新さんと出会ってなかったから、一緒にお祝いしたいんだ。そのあとは「あずま」に集まってみんなでお祝いしようよ! 明、東さんにも相談できるかな?』
話しかけられた白いハムスターのヨルがこくりとうなずく。
――『うん。みんな集まると人数もそこそこ多いから、貸し切りにするのもいいかもしれないね。お盆あたりなら休みを利用してみんなの予定もあうのかな。話しておくよ。ぼくも晴夜さんと出会えたのは「アニパー」のおかげだったし、おまけにちょうどいまの時期だったから、お祝いしたいな』
――『なるほど、お盆なら集まれる可能性も高いね。そうしたら俺らも東さんの料理食べられる~……明はいいな、ふたりでお祝いする日も東さんが美味しい料理作ってくれそう……』
――『ン、祝いたいって言ったら、そうなるかもしれない。ぼくも手伝うけど』
――『あー……またトマト煮が食べたくなってきた!』
『ははは』とみんな笑って、『一吹は?』と日向の質問が続いた。
――『一吹は「アニパー」をつくった本人が恋人だもんね。毎年祝ってた?』
――『いや……言葉で「なん周年だね、おめでとう」ってかわすぐらいで、なにもしたことなかった』
――『え! そうなんだ』
日向の文字が、声で聞こえてくる。
責められているような声色で感じられるのは、もちろん日向じゃなくて俺自身の心の問題だ。
――『ふたりで祝えなかったのは、理由があるんだ』
スマフォに文字を打ちこんで、弁解しようと試みた。
自分を正当化するためだ、と自分で気づいていた。
俺のなかに、うしろめたさがある証拠。
――『……俺、その理由わかるかも』
結生がフォローのようなひとことをくれて、一瞬心が晴れたのも自戒にすりかわる。
――『え、なに? どうしてわかるの? ていうか、特別な理由があるの?』
日向が不思議そうにはてなマークの質問を連投した。そしてヒナタの身体をむくと起こして立ちあがる。
ユキも立ってならんだ。
ヒナタとユキとヨルが、みんなソラを見守っている。
――『すごくつまらない理由だよ。……笑って聞いてほしい』
白ネコのヒナタが『いいよ』とうなずいてくれる。
白トラのユキは『つまんないってことないだろ』とソラの肩を叩いてくれる。
白ハムスターの明も『笑える事情ならちゃんと笑うよ』と真剣な表情になった。
――『ありがとう、みんな。じつはさ……――』
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「……新さんは本当に、俺にはもったいない人だなって思う」
「ん?」
「『アニパー』のお祝いしようって言っただけで、ここに連れてきてくれるなんて」
「いやいや……ワンパターンだって責めないでくれる日向の優しさに俺は救われてるよ」
「責めるわけがないっ。……俺にとってここは、大事な想い出の場所だから」
「……うん。それはもちろん俺もおなじだよ」
結局、変なサプライズはせず、新さんに『一緒に「アニパー」の八周年祝いをしよう』と伝えた。
新さんの誕生日とかなら内緒にしてケーキやプレゼントを用意し、驚きごと贈り物にしたいところだけど、今回はふたりで一緒に『アニパー』へ感謝を噛みしめたい日だったから。
だけど、そうしたら新さんは『ちょうど土曜日で休日だし』と車を走らせて特別な場所へ連れてきてくれた。
三年前『アニパー』から抜けだして、リアルで初めて対面した日に訪れた、俺の地元のショッピングモールにある和食屋さんだ。
正面に座っている新さんの前には、天ぷらと魚が味わえる青空定食。
俺のところには厚切り牛タン焼き定食。
おたがいにやにや顔を見あわせて注文した料理も、約束事のようにあの日とおなじもの。
あのあとも何度かきて、こうして食事をしたけれど、今日はいつもとはまた違う特別な感慨がある。
「『アニパー』は今年も周年記念部屋ができていたね」
「うん、8って描いてあるTシャツが売ってて、すごく可愛かったから俺ためてたポイントで買っちゃったよ」
「8? それは気づかなかったな」
「待って、いま見せてあげる」
ちょっとお下品だけど、箸をおいて食事を中断し、スマフォをだして『アニパー』にログインした。
ヒナタの部屋がでてくると、新さんのほうへむけてスマフォをおく。
「これ。いろんなカラーバリエーションがあってむっちゃ迷ったよー……」
俺が選んだのは桃色の生地に〝あにぱあ8〟と青文字で書かれたTシャツ。
購入して着替えさせてあげてから、白ネコのヒナタもどこか機嫌よさげに見える。
「ふっ……」と、新さんが左手で口もとを押さえて小さく吹きつつ、そっぽをむいた。
「? どうしたの」
「や……日向らしくてとっても可愛いね」
な。
「もしかしてダサいって思ったっ?」
つっこむと、新さんはさらにくっくくっく笑いだす。
「違うよ、個性的だなと思っただけ」
「それ褒め言葉じゃないからっ」
ひどい……すごく可愛いし、プロの人がデザインして、きっと大勢の大人が〝可愛い〟と納得して販売している立派な公式商品なのに……俺の感性がおかしいはずないのに……。
笑い終えた新さんも、「はあ……」と疲れたようなため息とともに箸をおき、自分のスマフォをだす。
「じゃあ俺もヒナタとペアルックにするよ」としばらく操作していたのち、「はい」と俺のスマフォの横に自分のをおいた。
新さんのアバターの、クリーム色キツネのシンさんが、ヒナタとおなじ色の8Tシャツを着ている。
ほんのすこしふっくりふくらんでいるお腹に〝あにぱあ8〟の文字。
「可愛い! ほら、どう見ても可愛いでしょう?」
「ふふ……」
「もうっ。俺と『アニパー』は時代の最先端なんだ。先をいきすぎてるんだよ。新さんたちは遅れてるの。ちゃんとついてきてもらいたいものだよ」
結生っぽく、気高く自信満々に胸を張って言い放ったら、新さんはまた頬をほころばせて楽しそうに笑った。
落ちついてくると、徐々に瞳を甘く、やわらかくにじませて、温かい微笑になっていく。
穏やかで優しい、俺の大好きな青空みたいにおおらかな笑顔に捕らわれて心が震えた。
「……初めてここにきた日も、似たような会話をしたね」
あ、と想い出す。
そうだった。
対面する前に『アニパー』で毎晩チャットをしていたころから俺のファッションセンスのなさはばれていて、新さんはダサいと言わないかわりにいつも『個性的だね』と、穏和に受け容れてくれていたのだった。
そしてその話題をここで会えた日にも声でかわして、笑いあった。
「うん……懐かしい。『アニパー』の文字で話してたことを、リアルでも新さんが言ってくれると〝本当にシンさんなんだ〟って実感できたよ」
「俺もおなじだ。話しながら〝ヒナタだ〟っていう実感が重なるにつれ、もう嬉しいばかりだったな」
「……ありがとう。女の子じゃないって、謝った日でもあったのに、新さんはずっと優しいね」
「優しくしたくて言ってるんじゃない、全部素直な想いだよ」
心外だ、というふうな怒りも新さんの声にまじっていて、胸がつまった。
視線をさげると、おたがいのスマフォにうつるシンさんとヒナタがいる。
ならんでおかれたスマフォの、それぞれの画面の真んなかに立って、ひとりぼっちでぼんやりしているキツネとネコ。
ふたりがスマフォの枠に囚われた、別々の世界にいる生き物に感じられて、かつて自分たちはこうだった、と思った。
俺がいたのは性指向への差別と劣等感に雁字搦めになっていた真っ暗な世界。
反して、新さんがいるところは晴天の青空に覆われた明るい世界。
新さんも決して希望に満ちた日々を送っていたわけじゃないと、自分は情けない大人だと、よく話して聞かせてくれていたけれど、俺にはキツネのシンさんが真っ青な空のような光で、夜にシンさんと会っていられる時間だけが毎日の楽しみで、活力で、生きる原動力だった。
だからあのころシンさんと繋いでくれた『アニパー』は、暗澹とした日々から解放してくれるたったひとつの幸せの場所だったんだ。
「……ああ」
ふいに新さんが小さく納得のような声をこぼして、俺の視線の先にあった自分のスマフォをとり、また操作し始めた。
え、と困惑して新さんを眺めていると、俺のスマフォ画面のほうに変化があった。
ヒナタの部屋に、シンさんがきている。
「一緒にいないとね」
とんとん歩いてきたキツネが、ヒナタをぎゅと抱きしめた。恋人登録しているふたりだけができるアクションだ。
新さんが再びテーブルにおいたスマフォにも、俺のとおなじように寄り添うふたりがうつっている。
ふたりの世界が繋がった。
「日向にようやく会えた日、〝人生も半分ほど過ぎて、こんな歳になって自分を救って、変えてくれた大事な人はこの子だ〟って、日向の瞳を見て感じられて、本当に幸せだった。日向は俺を青空だって過大評価するけれど、俺にとっても日向は『アニパー』で出会ったときからずっと太陽なんだよ」
「新さん……」
眉をさげて照れたように苦笑している彼を見つめた。
ファッションセンスだけじゃなく、新さんは俺が継父に責められ続けた性指向まであっさり受け容れて、俺と恋人になってくれた。
青空みたいにひろい包容力とぬくもりで俺の傷を覆い尽くして、癒やして、好いてくれた。
だけどそうやって救いあっていたのはおたがいさまなんだと、念を押すように教えてくれる。
俺も太陽みたいな光を、新さんに贈れていたんだ、と。
「……ありがとう新さん」
「こちらこそありがとう、日向」
いまでも変わらない。
何年経ってもこうやって、俺を光だと告白してくれながら、この人はこうしてここにいてくれる。
***
「ほかの『アニパー』のみんなも、いまごろお祝いしてるのかな」
「ああ、んー……どうだろう。明は祝いたいなって言ってたけど、結生と一吹は難しそうだった」
「そうなの?」
「氷山さんも大柴さんも、こう……仕事関係で、いろいろあるみたいで」
「なら『あずま』で集まる日は、みんなで楽しくお祝いできるといいね」
「うん!」
海ほたるに着くと、ふたりで笑いあって歩きながら、デッキへ続く扉をあけて外にでた。
すっかり暗くなった空に月が浮かんで海を照らしている。
揺らめく波が月明かりを反射して、きらきらと白くまたたいているのが綺麗だ。
そして俺たちの正面には橙色の光でライトアップされた、巨大な幸せの鐘がある。
「じゃあいくよ、せーの」
ふたりで一緒に紐をひっぱって鐘を鳴らした。
リンゴン、リンゴン……と涼やかで神聖な鐘の音が、海を渡って遠くの町まで、俺たちの胸にまで、響き渡る。
海ほたるへきたら、ふたりで恥ずかしさを押し殺して笑いながら、この鐘を鳴らすのもお約束だ。
「……ひな。ここではなんて言うんだっけ?」
えぇ、と照れて笑って熱い頬を腕でこすってもじもじしていたら、あの日みたいに新さんに背中から抱きしめられた。
「言ってほしいな」
潮風が吹いて、俺たちの髪をさらさらながしている。
新さんの瞳がライトの光をとりこんで、太陽を見つめているみたいにきらめいている。
背中が、夏の空みたいな彼のぬくもりに覆われて温かい。
海の香りに新さんの爽やかな匂いがまざって、俺の全部を包みこんでくれている。
怖いぐらい幸せで胸が痛い。
涙がこぼれてきそうなほどこの人が好きで好きで苦しい。
「――……新さんとキスしたい」
そっと潮風とともに近づいてくるこの唇の感触を知っている。
青空の味を、知っている。
……ぴぴ、ぴぴ、とやがて音が鳴り始めた。
あ、スマフォだ。
「ん……? 日向かな」
唇を離して、新さんが訊ねてくる。
「そうかもしれない」と失礼してジーンズのポケットからとりだすと、『アニパー』からの通知だ。
『ヨルさんからお手紙が届いています』
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「はあ……すごく可愛くて美味しそう」
リビングのテーブルにホールケーキがある。
目をとじて香ってくる匂いだけでも心に甘やかに沁み入ってくるのに、瞼をひらいてきちんと確認したチョコレートケーキは、手作り特有のすこし拙いクリームのならびも、ひとつずつ大事に添えられた飾りたちもなにもかもすべて愛情にあふれていて感動がこみあげてくる。
「晴夜さんのケーキだ……」
「今回はチョコレートにしてみたよ。食べやすい甘さになってるはずだから期待して」
「うん、でもその前に写真撮らせて。『アニパー』のみんなにもお手紙で送るんだ」
「はは。喜んでもらえるといいなあ」
ケーキの中央には〝あにまるぱあく8周年〟とチョコで書かれたクッキーが添えてある。
周囲にはイチゴとブルーベリーとオレンジとレモンも飾りつけてあって、チョコの甘さがフルーツで和らぎそうなケーキだ。
で、晴夜さんのアバターである水色ライオンのセイヤさんと、ぼくのアバターの白ハムスターのヨルの笑顔も、クッキーで作られてならんでいた。
「晴夜さんはキャラクタークッキーも上手に作れるんだね」
「全然だよ……アバターを見ながら一生懸命作ってこれだもの」
「ううん、とっても可愛いよ」
たしかに、ライオンの髪のかたちや、ふたりの笑顔の口がややいびつで、アバターそっくりとは言えないけど、その不器用なふたりがたまらなく可愛かった。
みんなに見せてあげるために、スマホ画面のなかに綺麗にケーキをおさめて数枚撮影し、セイヤとヨルの顔もそれぞれアップで撮る。
「本当に、食べるのがもったいないぐらい可愛いなあ……」
「好評のようならうちの店でお祝いする日も作ろうかな」
「うん、きっとみんな喜ぶよ」
「じゃあそのときは明もアバタークッキー作りを手伝ってよ。みんなにあげよう」
「……とてもいい案だけど、うまくできる自信がないから練習させてほしい」
「ははは。大丈夫、心をこめてつくればみんなも明みたいに喜んでくれるから」
「ン……わかった。頑張ります」
ふふ、と晴夜さんが笑い、ケーキを丁寧に切ってお皿へ盛ってくれた。
お祝い文字入りのクッキーはふたりで食べることに決めて、アバタークッキーだけそれぞれのケーキに添える。
ぼくはそのあいだにアイスレモンティーをグラスにそそいで用意した。
おたがい準備が整うとお皿とグラスを持ってガラス戸の前へ移動し、それらをおいた。
そして部屋の灯りを消して、フローリングの床に座布団を敷いて座って、ガラス戸をあけて、月と星を眺めながらケーキを味わう。
ぼくらはときどき、こうしてお月見をする。
「満月まではまだ数日かかるけど、今夜も結構明るいね」
「うん……風も涼しくて気持ちいいな。ケーキも美味しくて幸せ……」
「味も満足してもらえてよかったです」
「しますよ。晴夜さんが作ってくれるものは全部美味しい」
チョコだけだと胸焼けすることもあるのに、予想どおりフルーツがあるおかげでいくらでも食べられた。
晴夜さんはこういう計算もこみで、料理が上手だ。
食べる相手のことを慮った、愛情をこめた料理を作る。必ず。
「……出会ったころ、晴夜さんが〝自分は悪い人間だ〟って言ってたのが懐かしい。笑い話にすら感じられるよ」
つい、ふふ、と笑い声も洩れた。
「明は何度もそう言ってくれるね。本当のことなのになあ」
「料理を通しても、晴夜さんの人柄は感じられるんだよ。いまは晴夜さんを素敵な人だって認めてくれる仲間がたくさん増えたし、そろそろ晴夜さん本人にも自分は素敵だって認めてほしいよ」
「ん~……素敵なのだとしたら、明のおかげなんだろうな。明が俺を生まれ変わらせてくれたから」
「生まれ変わる?」
首を傾げたら、右隣にいた晴夜さんがぼくの背後にきて、背中から覆うように身体を重ねて座った。
両腕をぼくの腰にまわしてぴったり寄り添う。
「……このあいだ一吹君に聞いたんだ。人は失恋したら死ぬような辛い気持ちを味わうけど、また恋をして生まれ変わるものなんだ、って」
失恋とともに心を亡くして、再び恋して生まれ変わる……。
「すごくわかる。一吹すごい」
「ね。俺もそう言った。本人は『友だちの受け売りだ』なんて謙遜してたけどね」
「ふうん……」
「……だからいま俺のこの命は明がくれたもので、明のためだけに生きているものなんだよ」
晴夜さんが俺の左のこめかみに頬ずりをして、耳に告白を囁いてくれる。
ぼくもケーキのお皿を横におき、左手で彼の腕をさすった。
「……うん。ぼくもだよ。ぼくも一度、たしかに死んでた。晴夜さんに出会って、もう一度生き始めたんだ。いまぼくの命は、晴夜さんと幸せになるためにある」
「ありがとう明」
「だけど晴夜さんはこの綺麗な手で、『あずま』っていう温かい場所で、美味しい料理を作って、ぼく以外の人にも生きる力を与えてあげているんだよ。恋人としてはぼくのものだけど……決してぼくだけの命じゃない。そのことも、心から尊敬してるよ」
ぎぅ、と力をこめて強引に、でもちゃんと加減をしてくれているとわかる甘さで、抱き竦められた。
「ふふっ」とぼくが笑うと、晴夜さんもぼくの左の耳もとで小さく色っぽく笑う。
「明だけのものでいたいけど、もちろんお客さんも大事だし、明と尊敬しあえる恋人でいたいから仕事も頑張るよ」
「うん。晴夜さんが頑張ってるのは、ちゃんと料理の味でわかる。ぼくも晴夜さんに甘えるだけの子どもにならないように、勉強とか、頑張ります」
「明の尊敬できるところは、そういう面ではないよ」
「え。大学院で頑張ってることぐらいしか、誇れることが思い当たらないんだけど……」
「んー……」と晴夜さんがもったいぶるように唸って、喉で笑いながらぼくの頬を吸う。
晴夜さんが見つけてくれている、ぼくのいい面も、あったりするんだろうか。
「明の尊敬できるところはー……エッチで天然なところかな?」
「くっ」
腕を軽くつねって攻撃したら、「いたい」と嘆きながらも晴夜さんが大笑いした。
そんなの、尊敬という言葉をつかう面じゃない。
「いいよもう……ぼくだって晴夜さんほどじゃなくても、自分以外の人も幸せにできるように、あなたと対等な人間になれるように、こつこつ努力して生きていきます」
宣したら、また強く抱き竦められた。
晴夜さんの表情は見えないけれど、甘えるように頬をすり寄せられて、抱きしめられて、こうして想いを肌に沁みこませるように抱擁されていると、多幸感に潰されていく。
「あ……そうだ。みんなにケーキの画像送るよ」
晴夜さんがくれる幸せに溺れて自我を失ってしまう前に……と、スマホをとって『アニパー』をひらいた。
さっき撮った画像を加工して明るさや色あいを調整し、ソラ、ヒナタ、ユキにお手紙で送信する。
「みんなはいまごろなにしてるんだろうね」
晴夜さんがそう言ったすぐあとに、日向から返事がきた。
『すっっごく美味しそうだし可愛い! 明いいな~やっぱり東さんの手料理食べてる。しかもケーキ! アバターの顔むっちゃ可愛いよ。新さんも隣で可愛いって感激してる』
興奮したようすの絶賛のあとには、大きな鐘と、海? の夜景写真が添えてあって、『俺らも想い出の場所にきてるよ~』という報告もあった。
「ほら、思ったとおりケーキも好評だし、日向も幸せそうだよ。ここどこだろう。鐘がライトで光ってすごく綺麗だ……」
「本当だ、綺麗だね。想い出の場所かー……俺は店があるから明をあまりデートへ連れていってあげられてないな」
「そんなことないよ、いろいろ連れていってもらってる」
「じゃあ明の想い出の場所はどこ?」
「……。ラブホテル」
ぶはっ、と晴夜さんが吹きだして笑った。
「最初にデートをしたのはアウトレットパークだし、河原へバーベキューにもいったし、夏祭りだって楽しかったでしょう? なぜそこでラブホテルっ」
「お、想い出の場所だよ、ぼくには大事な、特別な場所っ」
「ふは……もちろん、それもわかるけどね」
あの日いったラブホテルは、ぼくにとってほかとはすこし違う特別な場所だ。
ゲイの自分の身体を晒して、初めて受け容れてもらったし、もうひとつのコンプレックスも知らないうちに許してもらっていた。
そして晴夜さんが〝明〟とぼくを呼んでくれるようになり、本物の恋人同士になれた。
そういう場所だから。
「やっぱり明はエッチで天然で可愛いな……」
「男として、エッチなのは認めるけど、それだけで言ってるわけじゃないから」
「わかってます。……またあのラブホテルのおなじ部屋にもいこうか。想い出を重ねていくのも素敵なことじゃない?」
想い出を、重ねる……。
「うん……素敵。恋人として一年間一緒にいた、いまのぼくらの想い出も、つくりたい」
「ン、つくろう。愛してるよ明」
大勢の人の心を満たす、美味しくて優しい料理を作る大好きな手が、そっとやわらかくぼくの身体をひきよせて傾ける。
瞳を見つめてキスの合図を知ると、自然としずかに唇をあわせて今夜もおたがいの味を教えあった。
唇が離れると晴夜さんはときどき、こんなふうに、世界中の慈愛をすべてまとったような優しくて温かい笑顔をひろげるから、ぼくはつい照れてうつむいてしまう。
なのに顔を隠してくれる前髪がないせいで、晴夜さんは喉で笑ってぼくの額にキスをする。
「……明の、こういう真面目なところ。清らかな心で、心春ちゃんやご両親や友だちや、『アニパー』のみんなや、『ライフ』の子たちを、大事に想っているところ。全部を尊敬して、愛しくてならないよ。……愛してる」
くり返して、また唇を塞がれた。
一年経ったのにキスに照れるんだね、と、キスの合間に晴夜さんが小声で囁いて苦笑する。
あなたがそんな笑顔を浮かべるからだよと、伝えたところで本人に自覚がないのはわかっているから、ぼくは彼の胸を軽く叩くだけで抗議を諦める。
口のなかにレモンの味がある。
これは、ぼくがケーキと一緒に食べたものじゃない。
晴夜さんのなかにあった欠片だ。
晴夜さんはレモンの味がする。
「ぼくも……晴夜さんを愛してます」
自分のすべてで。
この命の全部で。
「明、」
満月に数日足りない月が皓々と照る静謐のなかで、キスの音だけが響いた。
今夜も大事な想い出だ。
そう思った瞬間、またスマホが鳴った。
キスを中断してスマホを確認すると、結生と、一吹からお手紙の返事がきている。
『すっげえ可愛い! 東さんはほんとなんでも作れちゃうな……俺も食べたいよ。「あずま」の特別メニューにしてください』と結生。
『素敵すぎて食べるのがもったいないね。アバターのクッキーも飾っておきたいぐらいだ。羨ましいな』と一吹。
結生の手紙には『俺たちも一応、ごちそう食ってるぜ~。祝8周年!』と結生と氷山さんのものと思われるピースの指つきの料理写真が添えてあった。
テーブルの上にお皿があり、そのなかにやや雑な感じで料理が盛られている。椅子はない。
「ん? 結生君と氷山は、パーティにでもいってるのかな。立食パーティっぽくない?」
「あ、うん……そうなんだ。今夜ふたりは仕事で食事会なんだって」
「仕事? 一吹君はなんだか哀しそうだし、大柴さんはどうしてるのかな?」
一吹の手紙にはなんの報告も、写真もない。
ケーキを褒めてくれている温かくも、物憂げな返事のみ。
顔をあげると、晴夜さんも不思議そうな顔をしている。
はあ、と自分の口から無意識にため息がでた。
「晴夜さん……一吹はね、」
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「はー……東さんほんとすげえな……やっぱりさ、料理できる男っていいよなあ」
「なんだよ、俺より東のほうがよかったって言いたいのか?」
「ばっか、違うよ。東さんみたいに、俺も緑さんに美味しい料理作ってあげられるようになりたいなって話してんの」
「本当だろうな」
「ほんとだっつの。そもそも明の幸せを邪魔したいと思うわけねえじゃん」
「欲しくなるのと邪魔したくないのはべつの話だろ」
「しつこいっ」
「親友と恋愛で揉めるのも嫌だからな、俺は」
「緑さんと東さんの友情も、俺と明の友情も、壊す気ねーからっ。俺は緑さん幸せにすることしか考えてねーよっ」
「フン」
右隣に立っている緑さんが、唇を小さく尖らせてノンアルコールのカクテルを呑む。
っとにこの人は……と、呆れて睨み据えていたら、ふいに上半身を屈めて俺の右耳に唇を寄せ、「……すまない。こんなところで嫉妬して」と謝罪を囁いた。
すぐに姿勢を正した横顔は、周囲の人目を意識した緊張感を保ちつつも若干いたたまれなさげに歪んでいる。……たぶんこの微妙な違いは、俺にしかわからない。
「……べつにいいけど。どこにいようと俺は緑さんのものだし」
俺もしれっとこたえてワインを呑んだ。
スマホをスーツの胸ポケットへしまうと、嬉しそうに微笑んでいる緑さんと目があってどきりとした。
……やべ、顔が熱い。照れて赤くなってるかも。ワインのせいってことでごまかせますよーに。
見渡したひろくてきらびやかな会場にはドレスやスーツで正装したたくさんの人たちがいて、数メートル間隔で綺麗に配置されている丸テーブルを囲み、立食パーティを楽しんでいる。そのあいだを、お酒やジュースを持って歩きながらサービスしているのはボーイさんたち。
入ってきたときから気になっている天井のでっかいシャンデリアは、デザインが豪華で繊細でものすごい。あれ絵で描こうとしたらめちゃんこ大変だろうな……。
今夜は都内の有名ホテルの会場で『アニパー』8周年記念パーティが開催されており、緑さんと俺も招待されてやってきた。
『アニパー』ほど成功した作品となると、こんな豪勢なパーティまでひらけるのか……と、驚嘆に暮れる。
「それにしても、パーティ長いな……もう腹もいっぱいだし、ひととおり挨拶もすませたからお暇したい。出張でこられなかった草野が羨ましいよ」
「緑さん、もうすこし小声で」
「『アニパー』には感謝してる。スタッフもみんな優秀でいい人たちだ。でも大柴は祝いたくない。いい加減解放されたい」
「緑さ、」
制止する前に、「相変わらずひどいなあ」と、つっこみが入った。
ふりむくと、俺の背後に大柴さんがいる。
うわ、と思わず戦いてしまった。
緑さんと、大柴さんの目があう。ばちばち、と火花が散って見えるのは気のせいか……?
「閉会前にもう一度挨拶しておこうと思ってきたら、人の悪口を堂々と……」
「とんでもない、お世話になっているのに悪口なんて言うわけないじゃないですか。聞き間違えですよ」
「あまり可愛くない態度をとってると、結生のことを返してもらうよ?」
「結生はものじゃない。それにいまはうちの正社員だ」
「とり返す方法ならいくらでもあるさ」
「俺のものだって言ってるんだよ」
「〝もの〟じゃないんだろ」
「変な真似したらただじゃおかないぞ大柴」
「あーっ、もうやめろ」と声を抑え気味にして、ふたりのあいだに割って入った。
「ふたりとも大人げない。今夜は『アニパー』の記念パーティなの、大柴さんにとっても、緑さんにとっても大事な日だろ? 仕事の面でも、プライベートの面でもだ。わかったら変な喧嘩はなし。落ちつけ、どっちも社長と、副社長なんだからっ」
フン、とふたりして唇を尖らせて口を噤む。
……以前なら、仕事場で会うときはふたりともちゃんと大人の対応ができていたのに、『あずま』でも頻繁に顔をあわせるようになったいまでは善くも悪くも仕事とプライベートの境が曖昧になっている。
まるで二十代の大学生に戻ったように口喧嘩したり、あげ足とり合戦を始めたりして仲がよすぎだ。
華やかなお祝いの席だってのに、まったく……はらはらするのはこっちのほうだぜ。
「……恋人を困らせて、駄目な奴だな緑は」
大柴さんが口端をひいてにやりと微笑みながらシャンパンを呑んだ。
その左手の薬指には一吹が大柴さんにあげたという結婚指輪がある。
「困らせて、ませんよ」
緑さんの声にまじった動揺を、大柴さんが逃すわけがない。
「結生がやきもきしているのは、こういう場だけじゃないんだろうなあ……毎日おなじ職場にいて、社内恋愛で、緑社長が公私混同せずに自分を律して結生と接せられているのか甚だ疑問だ。――結生、本当は窮屈なんじゃない? いつでもうちに帰っておいで、歓迎するよ。恋人とは適度な距離も必要なものだからね」
ふふ、と目を細めて微苦笑する大柴さんが、単なる冗談で俺らをからかっているのはわかる。
わかるんだけど、俺も胸がつきんと痛んで、狼狽した顔を隠すように視線をさげてしまった。
その視線の先に、ワイングラスを持つ自分の右手がある。
俺と緑さんは、関係を偽っている場ではずっとこっちの薬指に指輪をつけかえている。
本来あるべき指につけていられる時間は少ない。
しかしおなじシルバーのシンプルな指輪なうえ、〝社長の家に居候させてもらっている社員〟というのもなかなか苦しい嘘というか、なんというか……。
直接訊かれたことはないけれど、仕事でパートナーを組んでいる草野さんあたりならすでに俺らの仲を察しているんじゃないだろうか、と感じていた。
予想していた状況とはいえ、〝窮屈〟という言葉は心に刺さる。
だけど、それでも――。
「……すみません、大柴さんのところには戻れません。この距離は、俺たちが覚悟して選択したものだから。今日のパーティも本当に素敵で、『アニパー』をつくっている人たちはみんな『アニパー』を誇っていて、グラフィックデザイナーさんたちも自分がつくったアバターや洋服のデザインを幸せそうに話して聞かせてくれて……この素晴らしいチームは、大柴さんの愛情と努力の結晶なんだなってしみじみ実感しました。やっぱり魅力的な職場だと思います。でもだからこそ、俺は緑さんが出会わせてくれたうちの大事なスタッフみんなで、『ライフ』を『アニパー』に負けないアプリに成長させたいって、奮起しました。俺はもう居場所を見つけたんです。困難にも立ちむかいたいと思えるぐらい、緑さんと、『ライフ』の運営と発展が、俺の生きがいなんですよ」
「結生……」と、緑さんが右隣でこぼした。ふりむくと、憧憬のにじむほうけた表情をしている。
当然のことを言っただけなのに情けない顔すんなよなって感じに、「いしし」と笑いかけてやった。
「結生にふられたら負けを認めるしかないな、残念だ。まあ俺は結生が幸せならいいんだよ。緑に辛いめに遭わされたら、そのときは帰っておいでね」
大柴さんもウインクしてあっさり身をひく。
大柴さんはそもそも緑さんと争う気はないんだ。緑さんのほうに個人的な嫌悪や嫉妬や恨みや劣等感があるだけで。
大柴さんに「すみません」と軽く頭をさげて笑顔をかわしていたら、右横から緑さんに肩を抱き寄せられた。
「困難があっても、ちゃんとふたりで分けて乗り越えながら幸せを育んでいきますのでご心配なく」
「動揺したくせに」
「っ……うるさい。俺らのことより、あなた一吹君とは大丈夫なんですか。毎年淋しがらせてるんでしょう」
「え?」
はっとした。「緑さん、」と諌めても遅かった。
「『アニパー』の周年記念日をふたりで祝えたことがないって。でもそれは、あなたが毎年こうして大々的に関係者の人間とパーティを催しているからしかたないって、一吹君ひとりで我慢してるそうじゃないですか」
大柴さんの顔色が変わった。
笑顔が消えて、ぞっとするぐらい冷たくかたい無表情に変容していく。
「……それ一吹が言ったのか」
「ええ、らしいですよ。結生がみんなと『アニパー』で話してたときに聞いたそうです。今日は新さんのところも、東のところも、『アニパー』の周年祝いをしてるのに一吹君だけひとりみたいで。だけど毎年のことだからって、諦めているようすだったとか」
「大柴さん」と俺も割って入った。
「一吹べつに愚痴ってたわけじゃねえから。大柴さんを責めてたんじゃねえよ。でも、その……帰ったら、想い出話ぐらいはしてあげて。大柴さんと出会った日も大事にしてるけど、大柴さんがつくった『アニパー』の誕生日も、一吹は特別に想ってるよ」
訴えて見あげた大柴さんの厳しい瞳が揺らいだ気がした。
持っていた呑みかけのシャンパングラスを大柴さんがテーブルへおき、俺の肩を叩く。
「閉会の挨拶を始めよう」
そして颯爽と正面の舞台のほうへむかっていってしまった。
***
「大柴さん、大丈夫だったかな。一吹怒ってるかな……」
「おい。ベッドの上でほかの男の名前を言うのは許さないぞ。大柴ならなおさらな」
「一吹の名前も言ったよ」
「じゃあもう許さない。ひいひい言わせてやる」
「……ふふ」
ボタンをといた俺のワイシャツを腕からとって、緑さんがベッドへ俺を押さえつける。
スプリングがしなっておたがいの身体が軽くバウンドするぐらいの勢いで襲われたから、おかしくて笑ってしまった。
「ひい~」
「ふざけて笑っていられるのはいまのうちだからな」
そう言いながら、緑さんも笑っている。
「俺のスーツ姿はレアなのにさっさと脱がせて。緑さんもっと堪能しろよ」
「俺はおまえと違ってスーツ姿より裸のほうが燃えるんだよ」
「えー……裸に燃えてもらえるのも嬉しいけど、緑さんってつまんないね」
「失礼な奴だな」
「洋服のフェチがないって男として駄目じゃない?」
「そこまで言うことかよ」
緑さんが思いきり眉を歪めたから、吹いてしまった。
「ほら、スーツ大好きな結生ちゃんは俺のネクタイをはずしたいだろ? やらせてやるよ」
「むかつく誘いかただな。わっくわくだけど」
ふたりでくすくす笑いながら緑さんのネクタイに指をかけた。
失敗して首をしめつけないように、するりとひいてほどいていく。ストイックに肌を包んでいた白いワイシャツの首もとが、ゆっくり乱れていくさまがセクシーだ。
至近距離にある顔が好みで、格好よすぎて、ネクタイをとる自分の手もとだけ見つめていたけど、こくりと動く喉仏にまで心臓がきゅんと弾けて顔が熱くなったのがわかった。
つきあい始めて一年以上経っても、この人の格好よさには慣れない。
顔も、喉も、ボタンをはずしてすこしずつあらわになっていく鎖骨のかたちも、頼んでないのにどんどん近づいてきてこっちの顔を覗きこんでくる二重の瞳も、器用に俺の顎をあげる細長い指先も、勝手に俺を捕らえようとしている桃色の薄い唇も。
なにもかも好きすぎてやっぱり慣れない。
「……大柴さんに〝想い出話してあげて〟なんて偉そうに言っちゃったけどさ、俺たちの出会いはひどいもんだったよね」
唇が離れたあとしみじみふり返ったら、緑さんは喉で、ふっ、と笑った。
「そうだな。……あのときおまえに〝クマじゃねえ〟ってふられなければ、もうちょっと可愛がってやれたんだろうけどな」
「またそれ。ほんとに俺のせい? セックスするだけの相手には冷たかったんでしょ?」
「おまえのことは可愛いと思ったって言ったろ」
「可愛いだけで態度まで変わったの? あのころの緑さんが?」
「変わった、と、思う。……いや、そう想うのはいまの俺だからかな? あのころならつっぱねた……か。うーん……」
「わかんねえんじゃん!」
「いまおまえを愛してる気持ちだけがいっぱいで、昔の自分なんか忘れたよ」
大きな右の掌で、ぐいと前髪をのけて撫でられ、また唇を奪われた。
ふわりとやわらかい緑さんの唇が自分の唇とこすれあう。その奥でおたがいの舌が搦みあう。
自分の胸の上でわだかまっていたネクタイが、身体を重ねあわせてくる緑さんとのあいだで潰れた。
邪魔だ、てなふうに緑さんが口をあわせたまま左手でネクタイをひっぱり、ベッドの下に落とした瞬間、しゅっと摩擦で胸が熱くなった。
「ンっ」
痛みも感じて肩をびくりと竦めたら、緑さんがキスを中断した。
「結生」
「いま熱くて痛かった」
ふたりで視線をさげると、俺の胸の真んなかがちょい赤くなっている。
「ああ……ごめん。傷つけた」
緑さんが上半身を屈めて、そこに唇をつける。
舌で舐められると、またひりっと痛む。
「いたっ……痛いからいいよ」
「消毒」
そっと慎重に舌を這わせて唾液を塗っていく。
その緑さんの髪と、つむじを眺めていると撫でたくなってきて、艶のある髪に指を絡めた。
「……あの日俺に先っちょつっこんで、〝処女か、ふざけんな〟って帰っていった男とは思えないなー……」
「二度目に会った夜はこっちを優しくほぐしてやったろ」
続けて左側の乳首を食みながら、お尻を揉まれた。
「うん……あの夜は怖かったけど優しかった。俺は容易く惚れちゃったな」
あ、ン……と、乳首に施される愛撫に耐えきれず声がでた。
舌で舐めあげられて、吸われて、後頭部が痺れるぐらい気持ちいい……。
「緑さん、も……裸に、なって、」
「結生が脱がせてごらん」
嬉しそうに俺の右の乳首にも舌をつけて吸ってくる。
ン、ぅ、と喘ぎ声を噛みしめつつ、快感で震える両腕をぎこちなく動かして、緑さんの背中に掌をのせた。シャツを掴んで、ひっぱりあげる。
「ばか、前のボタンはずしてからじゃないと、」
「むり……手、届かな、よ……、」
自分の乳首を吸っている人の胸もとのボタンなんか、はずしづらい。
緑さんは喉の奥で笑っているのに俺の胸から口を離さないし、俺も気持ちよすぎて思考力が低下しているからとにかくシャツだけひっぱる。
「こら」
やっと口を離した緑さんが顔をあげると、背中のシャツを頭に被ってる変な格好になっていて、「ぶはっ」とふたりして大笑いになった。
「はははっ、おばけみたい」
「ったく、数えきれないほどセックスしてきたのに服を脱がすこともできないのかよ」
「ははははっ、でもなんか、可愛い」
「可愛いのはおまえだ」
シャツを脱ぎ捨てた緑さんが、逞しくかたちのいい身体を晒して、もう一度俺に身体を重ねてくる。
俺の目を覗く緑さんの瞳が、愛してる、と言っているのが聞こえる。
……しずかに緑さんの右手が頭へおりてきて、慈しむように髪を梳かれた。
「さっきありがとう」と、唐突に言う。
「大柴の誘いを、きっぱり断ってくれて」
面食らった。
「あたりまえだよ。俺が揺れると思ったの?」
「いや……ただ、不安になった。結生はうちの社員になったことも俺と同棲を始めたことも、後悔してるんじゃないかと、ちょっとうしろめたさがあったから」
ああ、と納得した。
〝自分がクリエイターを大事にしていることは社員も周知の事実、結生は昔から心酔していたから社員になったいま居候させていると言ってもみんな納得する〟と提案してくれたのは緑さんだ。
渋る俺を必死に説得してくれたのも緑さん。
しかしそれが現実となった現在の状況には、緑さんも思うところがあったっぽい。
「なにも後悔なんかしてないよ。入社前から『ライフ』に携わらせてもらっていたのもあって、緑さんが俺を大事にしてくれることには、本当に誰も違和感がないみたい。逆に、〝社長の家に居候ってやりづらくないか〟って心配してもらってるよ。同性愛関係ってことは隠し通さないといけないから、それは大変だし、淋しいものだなって感じるけど、これって会社に限らずどこへいったってそうでしょ。俺らは家族に認めてもらってるんだから、充分じゃん」
「それに、」と緑さんの首に両腕をまわして抱き寄せた。
「……それに、お父さんに誓ったこの想いは絶対に手放さないし、お父さんを裏切るようなこともしないよ。俺は緑さんと、お父さんを愛してるから」
強く緑さんをひき寄せると、あの雪のなかで指輪をつけて抱きあげてもらったときの感触と光景も蘇ってきた。
マフラーのあいだに入ってきたしゃっこい雪、清冽な白い絨毯、澄んだ冷たい風、緑さんの冷たい唇。
そして三人で笑いあって、家族として過ごした日々。
お父さんの平たく痩せ細った掌の感触。
自分が死んだあとも飽きるまで緑さんの傍にいてやってほしい、と言い遺したあの声。笑顔。
ふたりでつくった雪だるま。
そんなお父さんを何年もひとりで見守り続けた緑さんの深い愛情。
家族になってくれてありがとう、と礼を言った緑さんのしずかな声。
火葬炉へ入っていったお父さんの棺を小さな扉越しに見つめ、親父、と洩らして泣き続けた、この人の震える掌の温度。
「緑さん、はんかくせーこと言ってんじゃねえよ? 弱気になるな。俺の愛情、疑うなよな!」
目の縁にじんわりにじんだ涙を蹴散らすように、ははっ、と笑って緑さんをもっと強く抱きしめた。
お父さんに教わった南部弁も全部憶えている。
もらった言葉も、優しさも表情も、なにもかもこの俺の身体に沁みついている。
手放すわけがない。
裏切るわけがないだろ。
俺はこの愛情と誓いを胸に刻んだまま緑さんと生きていくって決めてるんだから。
「結生……」
俺の首筋に顔を埋めている緑さんの声もすこし掠れて濡れていた。
「お父さんさ、自分は奥さんと離婚してしまって緑さんに淋しい思いをさせたけど、緑さんはお父さんと緑さんと俺の三人の家族をつくれた立派な息子だって嬉しそうに言ってたよ。俺たち、離れちゃいけない家族なんだよ」
そう教えると、緑さんも俺の腰をきつく抱き竦めてきた。肩が小さく震えている。
「……いまそんな話をするのは反則だろ」
右肩が熱い。緑さんの涙だ。
彼の背中をさすって、後頭部の髪を梳く。
自分のこの手が、母親のようにも父親のようにも緑さんを守れるように、温かく頼もしく、愛情を刻みつけながら。
そうしてもう一度くり返した。
「……家族だよ、緑さん」
ああ、とこたえて、緑さんも俺の首筋に頬をすり寄せる。
彼が吐く吐息にも涙の熱がこもっていてあったかい。
もっと長く、これからもずっと、幸せでいよう。
それが、お父さんや、俺たちを大事に想ってくれている人たちの幸せでもあると信じている。
目をとじると、お父さんの笑顔と、ベランダの手すりにならんだ雪だるまたちが寄り添って見えた。
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「――……ぶき、……一吹」
ぐらぐら、と身体が揺れていることに気づいて目をあけた。
意識がゆっくりと覚醒して、心地いい眠りから現実へひき戻されていく。
「一吹」
ぼやけた視界の先にいるのが賢司さんだとわかった。
「……賢司さん、」
まばたきをして、かすみがかった世界をクリアにさせようと試みる。
なんとなくスーツ姿の賢司さんが見えてきたが、寝室の灯りも消えていて暗いので、ひらいたドアの隙間から入るかすかな光でしかたぐれない。
しかたなく身体を起こして、サイドテーブルにある夕日色のライトをつけた。
「起こしてごめんね一吹」と、賢司さんが横に腰をおろす。
「ううん……おかえりなさい。先に寝ててごめんね。パーティ、楽しかった?」
訊ねたとたん、いきなり抱き竦められた。
「う、く……苦しい、なに、」
「ごめん」
「え……?」
「ごめんね一吹、淋しい思いをさせて」
あ、とはっきり意識が目覚めた。
「……誰かに、なにか聞いたの」
「パーティ会場で緑と結生に叱られたよ。毎年一吹が淋しがってたって。……本当にごめん。『アニパー』の記念日が、一吹に関係ないものだと思ってたわけじゃないんだ。でも結果的に、そう思わせるような日にしてしまっていた。しかも今夜はみんな恋人同士でお祝いしてくれていたなかで、一吹だけひとりだっていうのも知ったよ。俺のせいだ」
ああ……と、賢司さんに抱き竦められたまま肩を落とした。
罪悪感に苛まれて、右手で賢司さんの背中を撫でる。彼の着ているスーツから、彼の香水の匂いと、外の世界の香りが浮かんでくる。
大好きな賢司さんが、かけがえのない仲間たちと過ごしてきた夜の匂い。
「……誤解だよ、賢司さん。俺は賢司さんに邪険にされたとか、そんなふうに思ってたわけじゃないから」
「したも同然だ」
「ううん、違う」
ひろい肩に目を押しつけて、しっかりと大事に抱きしめた。
「賢司さんはいつも、ふたりの記念日を祝ってくれるでしょう。誕生日も、俺の卒業式や入学式も、同棲を始めた日も、年末年始も……いつだって美味しい料理を食べさせてくれたり、豪華なホテルを予約して過ごさせてくれたりする。俺は賢司さんに幸せにしてもらってばかりだなって……金銭的な意味でも、恋人同士の幸せって意味でも、申しわけなく思ってるよ。もっとはやく大人になりたい、あなたと対等になって、俺もあなたを幸せにしたい、って」
「いまのままで充分だよ、俺は一吹に幸せにしてもらってる」
「ううん、聞いて。俺は贅沢なんだ。賢司さんに与えてもらってばかりだって自覚しているのに、賢司さんが自分の人生を捧げてつくりあげている『アニパー』の周年記念日っていう大事な日に……賢司さんを、独占できないことが、その……悔しかったんだ。嫉妬してたんだよ」
え、と賢司さんが上半身を離して、俺の顔を覗きこんできた。
「嫉妬……?」と首を傾げて、俺の目に問いかけてくる。
俺はいたたまれなくなってきてうつむいた。
「……そう。賢司さんを責めてたわけじゃない。俺は賢司さんともシイバとも恋人で、現実でも『アニパー』でももっとも近しい存在だし、想い出もたくさんある。俺にとっても『アニパー』の記念日は特別な日だよ。なのに、なんでお祝いの場にすらいけないんだろうって……ごめんなさい、傲慢なことを考えてひとりで嫉妬してました。ただのユーザーの俺が、『アニパー』を運営している社員さんたちと全然違うのもわかってたけど、せめておなじように賢司さんをお祝いしたい、とも思ってたんです」
高校生のころ、毎日利用していたバスで知りあった賢司さんが『アニパー』とも出会わせてくれた。
チャットの文字だから甘えて晒せる〝自分〟がある、と知った反面、声で心を伝えることの重みも噛みしめた。
そうやって学びながら賢司さんに恋をして、自分の性指向を受け容れ、むきあう勇気を抱けるようになっていった。
賢司さんと『アニパー』が、あのころの幼い俺を救って、成長させてくれて、眩しいほど光り輝く道を与えてくれたんだ。
友だちもできたし、賢司さんという恋人もできた。
人生の傍らに、呼吸をするために必要な存在として、賢司さんと『アニパー』があると言っても過言じゃない。
だけど俺は『アニパー』の誕生日に、賢司さんとふたりでお祝いができない。
賢司さんが会社で催しているパーティにも、いく権利がない。
それが淋しくて悔しくて、賢司さんにとって大事な日なのに、自分には心が腐る日になってしまうことが申しわけなかったのだった。
「……もしかして、一吹は俺を責めていたわけじゃなくて、自分を責めていたの?」
「うん……平たく言うとそうです。七月十三日の賢司さんが欲しいって、嫉妬する自分を消したかった。ごめんなさい」
「なんだそれは……」と、賢司さんが俺の左肩にうなだれて脱力する。
俺はそのままサイドテーブルにおいていたスマフォをとり、片手で操作して『アニパー』を起動した。
「……見て、賢司さん。さっき明がくれたお手紙なんだけど、東さんがこんな素敵なアバタークッキーつきのケーキを作ってたんだよ。みんなに出会えたおかげで、今年のお盆は『あずま』で『アニパー』のお祝いをしようって誘ってもらえたんだ。だから、その日は一緒にいこう。それで俺にもお祝いさせて」
賢司さんの背中をたんたんと叩いてお願いしたら、突然ベッドへ押し倒されて唇を塞がれた。
「ンっ……」
容赦なく奥まで深くむさぼられて、背中を掻き抱かれる。左の掌を、皮膚に爪が食いこむぐらい強く握りしめられる。
「い……賢司、さ、」
「どこからつっこめばいいのか謝ればいいのかもうわからない。俺はとても嬉しいし、一吹は可愛すぎるだろ」
「な、」
「これからは俺たちの記念日に『アニパー』の誕生日も追加しよう。パーティから帰ったらふたりきりで祝う時間もつくるよ。もしくは一吹もパーティに招待する。抱きしめアクションの提案者として」
「う、ぁ……それは、ちょっと、恥ずかしい」
苦くも甘い想い出だ。
賢司さんに片想いしていたころ、好きで好きでしかたなくて、せめて『アニパー』のなかでだけでも抱きしめたいと願い、俺のアバターであるソラの姿で、賢司さんのシイバに迫ったんだ。
だけど当時は抱きしめるアクションが存在していなかったばっかりに、ソラはまるで相撲みたいに、シイバをのしのしと壁まで押して追いつめることしかできなかった。
その後、賢司さんに『なんで押すの』と訊かれて、『抱きしめたいんです』と正直にうち明けたのがきっかけで、賢司さんは本当にアバター同士が抱きしめあえるアクションを開発してしまった。
やがて、初対面の相手まで勝手に抱きしめてしまうと問題がある、などの試行錯誤の結果、恋人登録をしたふたりだけができる特別アクション、として定着したのだった。
「言うなれば、恋人登録の発案者でもあるんだよ、一吹は。招待したって問題ないさ」
「いや、あるよ……俺は一般人だから」
「違う、俺の大事なアドバイザーだ。でも無理にパーティへおいでとは言わない。俺も一吹とふたりきりでお祝いできるならこんなに幸せなことはないよ。後日『あずま』で親しい仲間同士集まって祝えるのも嬉しいな。みんなとも相談していこう。『アニパー』をつくった人間としても、感謝の気持ちでいっぱいだよ」
俺の口もとのホクロにキスをして、賢司さんが心から幸福そうに微笑んでくれている。
あわい橙色のライトに照る愛しい笑顔を俺も大事に見つめた。
「……ありがとう。賢司さんは俺がどんなばかなことを言っても、出会ったころからずっと、何度となく許し続けてくれてる。何年経っても……すこしは成長できたかなって、自分に対して自負を覚えたときでも、やっぱり救われる瞬間が必ずあって、そのたびに俺は、あなたが必要なんだって思い知るよ」
「褒めすぎだよ一吹」
「そんなことない」
ふふ、と眉をさげて賢司さんが苦笑する。
その左頬にだけ、愛らしいえくぼ。
「俺も一吹に許されて救われているってことを、もっと伝えていかなくちゃな。……いまは、文字よりも声で」
囁いて、左頬にもキスをくれる。
「自覚はないし、言ってもらえたとしても納得できるかわからないけど……俺も賢司さんをいくらか救えているなら嬉しい。賢司さんを幸せにしたいです」
額同士をつけて、賢司さんが、ふふ、と笑んだ。
「……ほら、その言葉でもう俺を幸せにした」
吐息とともに再び彼の唇がおりてくる。
重なりあって、ひらいて奥へ入ってくる。
俺のパジャマのボタンをはずしていく器用な指に応えて、俺も彼の胸もとのネクタイとシャツのボタンをはずしていった。
女性を好きだったのに、俺を選んでくれた。
結婚したいと計画していたのに、男の俺を愛していくと、覚悟をくれた。
出会ってから恋人として過ごした数年間、賢司さんにもらったものをあげていったら本当にきりがない。
恋や愛は恩返しで成り立つものじゃないけれど、それでも俺も、生涯かけてこの人に両腕では抱えきれないほどの幸福を贈り続けられたらと願っている。
彼の幸せが、俺の幸せでもあるから。
……朝になったら、こっそり用意しておいたお祝いの品を渡そう。
どうしたって俺は未熟で、ワンパターンなことしかできないけれど、でも、どれだけ考えてもこれ以上におたがいを幸せにするものが思いつかなかったんだ。
一緒に過ごしているあいだにも、想い出を重ねていって尊い輝きが増している大事なもの。
冷蔵庫にしまってあるよ、真っ白くて優しく甘い『かすが』の牛乳プリン――。
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【8月15日(木) 記念日
『食事処あずま』は現在お盆休み中ですが、
本日は貸し切りでパーティのご予約がありました。
四組の仲のいい恋人たちです。
彼らにとって思い出深い大事な場所の記念日とのことで、
うちのお店でお祝いをしてくださったのでした。
縁を繋いでくれる場所にも、心は宿り、沁み入っていくものなのだと、
彼らの幸福そうな笑顔を見ながら感じていました。
召しあがっていただいた料理にも、
今夜の彼らの想いや幸せが刻まれていたなら、
食べるたびに想い出していただけるでしょうか。
場所や食べ物に残っていく、幾度でも蘇る褪せない記憶。
〝永遠〟に似た、そんな夢のようなものも、
案外と身近にあるものなのかもしれません。
以下の画像のケーキはその記念日に寄せて特別に作らせていただいたものです。
動物たちの可愛いクッキーをぜひご覧ください。
可愛い、とみんな喜んでくださって、とても好評でした。】


アニメイトオンラインショップにてWEBサイン会開催!
【抽選受付期間】2019年6月22日(土)12:00 ~ 2019年7月7日(水)23時59分まで
※受付は終了しました


「エデンの太陽」発売記念 復刻フェア
フェア参加書店にて以下の作品をご購入のお客様に、復刻ペーパープレゼント!
<対象商品>
・「エデンの初恋」
<期間>
2019/7/13~ 特典がなくなり次第終了
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