朝丘戻。WEBサイン会&書き下ろし番外編小説

朝丘 戻。先生の9月刊『あめの帰るところ』の発売を記念して、
WEBサイン会開催&書き下ろし番外編WEB小説を公開☆

あめの揺れるところ

 近所の予備校で、能登匡志先生と出会ってから九ヶ月。

 先生が俺を”あめちゃん”と呼ぶようになってから、約八ヶ月。
 先生に”女の子にとられたくなかった”と告白されてから、七ヶ月。
 自分の気持ちを自覚してから、五ヶ月。
 ようやっと受験を乗り越えてから、二ヶ月。

 ――予備校を辞めて、先生と恋人になってから、一ヶ月。

「んー、あの中華料理店のおじさん、ぱらぱらチャーハンがほんとうに上手だったなあ……」

 んんん、と顔をしかめて唸りながら、左手でフライパンを揺らし、右手のフライ返しでごはんを交ぜる。

 今夜はチャーハンだ。
 先生の家で、先生のために初めてつくる手料理。

 頭の中にある完成イメージは、先日ふたりで行った、先生の家の近所にある中華料理店のおいしいぱらぱらチャーハン。

 ……でも目の前のフライパンの上にあるのは、どっしりねちょねちょ蠢く、ごはん。の、かたまり。

「ああっ、下の方がこげてきた!」

 フライパンを振っても、ねち、ねち、とお餅のように微動するだけのごはんを、なんとかフライ返しで裏返した。
 左手の手首が痛い。痛いぐらい、ごはんが重たい。

 ぱらぱらにはほど遠いな……と、愕然として左手をフライパンから離し、痛みに軋む腕をこきこき振っていたら、横にいた先生が、

「かしてごらん、あめちゃん」

 と、手を伸ばしてフライパンを持ち、交代してくれた。
 フライ返しも受け取って、続けて火力を弱める。

 俺がこんなねちねちにしてしまったごはんを見ても、先生はにっこり笑顔だった。

「どうしたらぱらぱらになるんだろうねえ……? 俺も料理は得意じゃないから、わかんないや」

「先生は自炊しないの」

「ひとり分ってつくるの難しいもの」

 満面の笑みを浮かべる横顔の涼しさと、こともなげに唇からこぼした”ひとり”という言葉の寂しさがちぐはぐで、胸がじくりと痛んだ。

 先生が「野菜から出る水分、おそるべしだ」と感心して、俺より大きな力強い掌でフライ返しを操り、ごはんを交ぜる。
 そのまるく踞るごはんのかたまりを見ていると、いたたまれない気持ちになった。

 好きな人のために料理をつくるって、こわいことだな……。

 なんだろう、この感覚。
 幼稚園の頃、母さんの絵を一生懸命描いて、母さんは喜んでくれたのに、友達に「へたくそ」って嘲笑された瞬間の、急に冷たい現実を投げつけられたような途方もない哀しみを思い出す。

 俺、母さんを無理矢理笑わせたのかな、とか。
 母さんは俺の不甲斐なさを黙って許してくれたのかな、とか。

 ふつふつわき上がる劣等感と、母さんの優しさと愛情に、泣きたくなった。

「ね、先生。中華料理店の料理人って、みんななぜかおたまを使うでしょ? おたまを使ったら、ぱらぱらになるかもしんないよ!」

「えぇっ、道具の問題?」

 今は落ち込んでへこむだけの子どもじゃなく、努力することを知っているから平気だけど、料理はくちに入れるものだ。
 先生を嫌々笑わせて、不味いのに”おいしいよ”ってもりもり食べさせるような真似だけはしたくない。

 今夜は先生が十二年もの長い間、重ね続けたひとり暮らしの孤独とは無縁の、ふたりきりの幸せな食事なんだから、尚更。

「先生、交代して、交代。俺がおいしくつくるから」

「味は全然問題ないよ」

「あ、ありがとう……。じゃあ、意地でもぱらぱらにする」

「ねちょねちょでも嬉しいけどなあ」

 ム、と唇を引き結んで見上げたら、先生は眉を下げてふにゃと頬を緩め、微笑んだ。

「完璧なものって、そこへ至るまでの努力すら覆い隠してしまう力があるから味気ないけど、不器用なものは、頑張った気持ちが見えやすくて、印象に残りやすいでしょ? だから俺は、ねちょねちょの方がいいな」

 や、さ、し、く、すんなーっ。

「先生が言いたいことも、わかるけど……完璧な方が絶対いいよ!」

「そう? いずれ”あの時、あんなばかしたなあ””こうすればよかったのにねえ”って、話のネタにもなって、いつまでも記憶に残る想い出になるのに」

「想い出……」

「あめちゃんの手料理なんて、それだけで俺にはきらきら光って見えるけどね」

 愛しいよ、ねちょねちょチャーハン、と続けて、先生は俺のうしろにまわり、腰に両腕を絡めて左頬にくちづけてくれた。

 先生はこういう人だ。

 いつだってのほんと鷹揚で、ふんわり飄々と、空気の中を漂うように佇み、笑う。
 でも常に、あたたかい笑顔の影に、つめたい孤独を燻らせている。

 うーん、と唸ってしかめっ面になりつつ、俺は再びチャーハンを掻きまわした。

 俺、先生に我慢させてるんじゃないかな……?

 自分の劣った面を、先生が優しさと愛情で補って満たしてくれるのは嬉しいけど、悔しい。
 ”もう先生はひとりじゃない、俺とふたりぼっちだよ”と教えてあげたくて恋人になったのに、ちっとも出来てない。

 なんだか、靴を片っぽ履き忘れて来た俺に、先生が片足差し出して「踏んでていいよ」って促して、踏み潰させてもらいながら、ぎこちなく並んで立っているみたいだ。

 俺の罪悪感ごと受け止めてくれる先生に、負担をかけて寄りかかって、甘えてばかりじゃないか。

「あめちゃんは、チャーハンひとつで深刻に考えすぎだ」

「考えるよっ。ンーっ、玉ねぎが悪かったのかなあ……炒めても炒めてもねちねちなる……」

「テレビで、先にごはんと溶き卵を絡めておくといいって言ってた」

「えぇっ。コツを知ってたなら、教えてくれればよかったのにっ」

 真横にある先生の顔の、唇の端にがぶと噛みついてやった。
 「いだだ」とくちを歪ませて、おかしそうに笑ってから、反撃するように俺のくちを捕まえてキスをくれる先生。

 意識が、互いの想いを撫で合う舌の動きに集中していく。

 ジュウシュウ、とフライパンの中でねちょねちょチャーハンが泣いている。
 ちく、と口内でこぼれる音が、頭まで微かに響く。

 キスに心ごと奪われて、フライパンとフライ返しを持つ左右の手の感覚が薄れてきた頃、先生が静かに離れて目の前で微笑した。

 柔らかな、温かな。
 太陽がふんわり目の奥を刺激する刹那の、眩しくて強い、あの感覚に似た痛み。

「……俺、先生にキスしかあげられないね」

 そう言ったら、先生は目をまるめて面食らい、すぐに吹き出した。
 驚く俺などおかまいなしに、くちを閉じたまま喉の奥でくふくふ笑って俺を抱き締め、頬を擦り寄せて「”しか”ときたかー……」と、甘える。

「あめちゃんのキスを、俺がどれだけほしかったと思うの」

「え……?」

 うしろからぎりぎり俺を抱き竦めて、先生が互いの体温を結びたくてうまくいかなくて焦れるような、もどかしげな指で俺の身体を撫でた。

「あめちゃんは、今ここにいる。……いるんだよ。いないんじゃない。いてくれる」

 それがどんなに俺を幸せにしてると思うの。
 ……囁くような声でそう続けた先生は、俺の耳を軽く噛んでからイタズラっぽくはにかんだ。

 十分後、チャーハンとの格闘に負けを認めて、しぶしぶお皿に盛り、先生と食べた。

 先生は両頬いっぱいにねちょねちょチャーハンをしまって、大喜びでもりもり咀嚼し、

「本当においしいよ。心から嬉しいよ。もう一生あめちゃんのチャーハンしか食べたくない!」

 と、プロポーズみたいな言葉を言ってくれる。

 俺もひとくち食べた。
 もちもちのねちょねちょしたごはんが、舌に絡みつく。

 先生の家の大事なお米を無駄にしてしまった。
 一緒に買って来た、野菜も卵も。

 それでも先生の幸せそうな笑顔は、一瞬たりとも曇らない。

「あー、もうだめ。あー、もう無理。幸せすぎて息が詰まる。あめちゃんが予備校を辞めてから一ヶ月かー……。たった一ヶ月でこんなに幸せでどうしよう。来月は幸せすぎて干からびてそう。一年後が恐ろしいよ……」

「し、幸せで干からびるって……」

「あめちゃんがにこって笑ってくれるだけでも、心臓がばんばん働きだして全身熱くなって、脱水症状起こしそうだもの。手料理とか、頭おかしくなりそう」

「そ、そんな脱水症状聞いたことないよ」

「来月はお互い忙しいし、プラネタリウムデートだけにしようね。――あ、バレンタインがあるか! 今から覚悟しておかないと」

 表情をころころかえながら、大げさに喜んでくれる目に、嘘はない。

 ねちょねちょチャーハンをまた食べて、溜息をひとつこぼしてから、俺も笑った。

 劣等感を捨てよう、と思った。
 先生がくれる想いを、素直に受け取ろう。

 ひとりで思い悩んで心を濁らせて、先生の想いから目をそらしていたら意味がないって、気づいた。

「ありがとう、先生。じゃあ来月は、プラネタリウムとバレンタインと、ぱらぱらチャーハンリベンジを楽しみにしててね」

「楽しみが多すぎる!」

 心底嬉しそうに微笑む先生の左手が、ねちょねちょチャーハンの盛られたお皿を支えている。
 俺は手を伸ばして、その指先の爪の、白いところに触れた。

 する、する、と撫でていると、先生は苦笑して、ぱっと掌をひろげ、俺の手を握り締めた。

 俺の指先に、先生の手の体温が沁み込んでくる。
 大きな手が驚くほど熱くて、自分とは違う生き物なんだ、と唐突に悟った。

 身体の大きさも、呼吸の速度も、生きた年数も、体験してきた傷の数も。違う。

「……好きだよ、あめちゃん」

 そしてまた、先生は囁く。

 

 泊まりたかったけど平日だし、先生はこれから仕事なので、俺は帰らなければいけない。
 次に会えるのは明後日、金曜日の夜だ。

 家を出て、「もっとごろごろしてたい、あめちゃんと離れたくない……っ」とゴネる先生の手を繋いで引っ張るように歩き、行き先がわかれる路地まで来た。

 明るい街灯の下で向かい合うと、

「あめちゃんがいない予備校は、さびしい」

 なんて萎んだ声で言うから、笑ってしまった。

 ばか、って言葉にするのも足りなくなって、冬風が吹き抜ける路地の隅で周囲に人がいないのを確認し、背伸びして先生の唇を捕まえた。

 先生も俺を抱き締めて、くちづけを返してくれる。

「あめちゃん」

「……うん?」

「あ〜めちゃん」

「うん、なに……?」

 先生が俺の頭を胸の中に抱え込んで、温もりの中に閉じこめて、ぐりぐりじゃれ合うように揺する。
 温かくて照れくさくて、ふはは、と笑うと、先生も、ふふふと笑ってこっそり俺の耳に告白した。

「忘れないよ、今日のこと。ずー……っと先の未来で、あめちゃんに今日の話をして、”なに懐かしい話してしてるの”って言われたい」

「うん……言うよ」

「その日まで一緒にいようね。その日まで、毎日毎日愛してるよ、あめちゃん」

 愛してる、愛してる、と熱っぽい掠れた声で丁寧に繰り返して、俺の背中を撫でてくれる。

 言葉ひとつずつに、溢れる胸の想いを満杯に込めるけど、足りないから幾度も幾度も繰り返しているのがわかる。
 そんな”愛してる”の告白。

 先生の想いは俺の心だけじゃなく、全身まで覆い尽くさんばかりの大きな熱の塊で、俺は圧迫感すら憶える。
 同じ分、返したくて、同じ分、想っていると先生に伝えたくて、焦れば焦るほど心臓がびりびり痺れる。

 そして結局、俺の惑いも焦燥も愛情も、全部叩き込んだたった一言を返そうって決意して、

「俺も……愛してる、先生」

 と、言葉にしてみるけど、声にした途端の薄っぺらさに絶望した。

 微風に絡めとられて、さらさら流れていく、無力すぎる囁き。

 なのに、

「ありがとう、あめちゃん……ああもう、涙でてきたよ」

 先生は左目の端に涙屑を浮かべて、ほわほわ微笑んでくれた。

 先生の優しい心が、どんなに俺を守ってくれているか。
 ちっぽけな俺の命に、どれほどの価値を生んでくれているか。思い知る。

「ごめんね、先生」

「ん?」

 指を伸ばして先生の涙ごと頬を撫で、まだまだ幼い自分を心の中で戒める。

 好き合って結ばれた恋人同士でも、想いの大きさが同じになることはないのかもしれない。
 俺は先生を好きだけど、先生はきっともっと俺を好いてくれている。
 理屈じゃなくて、目に見えるものでもなくて、手に取って確かめることも不可能だけど、そんな気がする。

 そんな気がするほど、俺は幸せなんだ。

「時間がかかるかもしれないけど、先生のこと、これからもっとたくさん幸せにするね」

 ははは、と群青色の空の下、街灯の鈍い光に涙の粒を瞬かせて、先生は笑う。

「天然すぎるよ、あめちゃんは」

「どうして天然? 俺、先生が好きなんだよ」

「ほら、また。……そのあめちゃんの必死な姿に、俺がものすごい幸せになってるって、全然気づいてないんだもの。天然ちゃんだ」

 泣きたくなった。
 わんわん声を上げて泣いて、好きだって叫びたくなった。

 今こそ感謝を伝えなくちゃと思うのに、今度は喉が痛んで声が出ない。
 がむしゃらに先生の身体にしがみついて抱き締めて、先生が「いたた」と、嬉しそうに笑う声を聞いた。

 先生。
 先生、大好き。

 俺もずっと大好き。

 一緒にいて自分に失望したり、先生の優しさに潰れたり、幸福を大事にしようと奮起したりした、こんな濃密な時間を、きちんと胸に刻んでおくよ。

「あめちゃんと離れたくないけど、そろそろ仕事に行かなくちゃ。生徒が待ってる」

 うん、と顔を上げて笑いかけたら、先生はきょろきょろ周囲を見まわして、ぷちと一瞬だけキスをくれた。

「じゃあね、おやすみね」

 照れたようにはにかむ頬が、ほんのり赤い。

「うん、おやすみね」

 俺がこたえると、名残惜しそうに腕を離した。

「またあとで、おやすみの電話するね」

 先生の左足が、一歩さがる。

「うん、ありがとう。待ってるね」

 近づきたいのを我慢して、俺も笑い返す。……ちょっと、苦笑いになったかな。

「明日もおはようのメールするよ」

 俺の哀しみをフォローするように、そんな言葉をくれる先生。

「わかった。楽しみにしてる」

 今度は、精一杯嬉しさを込めて笑った。

「大好き、あめちゃん」

「うん、俺も大好き先生」

 離れていく先生が、何度も振り向いて手を振ってくれる。
 躓きそうになって、情けなく笑って、路地を曲がる寸前に、両手を振って唇を”おやすみ”と、ぱくぱくする。

 遠くの街灯の下で手を振る先生が、スポットライトを浴びる俳優みたいで、笑うのを堪えながら、俺も背伸びして両手を振って、”仕事がんばってね”ってくちを動かした。

 またね、先生。
 またあとで。

 こんなささやかなお別れすら寂しく想った夜を、忘れないよ。
 忘れたくないよ。

 ……ありがとう。

 ――そして俺が眠るまで、あと一年と数ヶ月。

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