「ですが、俺達が受けた指示はこの現場なんですよ。ハイエルはまだ来てないですし。彼の気の短さは知ってるでしょう。俺達を困らせないでくださいよ」
 穏やかに微笑み、藍はどうしようもないんですという仕草で腕を広げてみせた。レックス・ハイエルの性格が大いに強情なのはブラウンもよく知っていることだ。
「外へ行って捜索を手伝え。ここは俺達の班が処理中だ」
 踵を返して出ていく後ろ姿は、明らかに藍達二人と関わるのを拒絶していた。
 アニタが腕組みをして、低くささやく。
「失踪した少女の母親はメイシー議員の姪よ。ニールは手柄を掻っ攫うのが早いわね」
「その話は後で」
 室内を一通り見渡してから、外へ行こうと藍はアニタに示した。
 外の芝生に出ると、左右を見回しながら裏庭へと向かう。家の裏に聳える大きな木の上にはツリーハウスがあった。
 スーツのジャケットを脱いでアニタに手渡し、ネクタイを少し緩めると藍はその木に登り始めた。ツリーハウスのところまで登ると、予想したとおり中にいた少年に向かって笑顔を浮かべる。
「やあ、ジェイソン。俺を覚えてる?」
 ハウスの奥で縮こまっていた少年は不意に現れた藍を目にし、小さく頷いた。
「……ランだよね、エイムスさんちの……」
「前、俺に新聞を持ってきてくれてた時は、いつもコーヒーも一緒に届けてくれてたね」
 穏やかな笑みを浮かべたまま、藍は彼に手を伸ばした。
「下りてきてちょっと話さないか?」
 ジェイソンはかすかに頭を振り、膝を抱えてツリーハウスの中で小さくなっただけだ。
「じゃあ俺が上がっていっていいかな?」
 見たところ、このツリーハウスは大人が入るのに充分な頑丈さを備えていそうだった。
 しばらく躊躇ってから、ジェイソンがようやく頷く。
 藍は気をつけながらツリーハウスに這い上がり、少年の傍に座ると、手を伸ばして彼を抱き寄せた。
「何が起きたかは知ってる?」
 ジェイソンが頷く。
「……リディアが……いなくなったんだ」
 そっと彼の頭を撫でてやりながら藍は尋ねた。
「誰がリディアを連れていったか見た?」
 頭を振ったジェイソンが、顔を膝の間に埋め、沈鬱な声を出す。
「……本当なら犬に餌をやりに行くはずだったのは、僕だったのに……」
 大きな責任を感じている少年の姿に、藍はひそかに溜め息を吐いた。
「君のせいじゃないよ」
 数秒間沈黙してから、ようやく頭を半分だけ上げたジェイソンが、祈るような眼差しを向けてくる。
「リディアを見つけてくれるよね?」
 一瞬言葉に詰まったが、藍は穏やかに微笑んだ。
「ベストを尽くすよ」
 ジェイソンは少しだけ安心したように見えた。
「誰がリディアを連れていったのかは見てない……ママが呼んでるのが聞こえたけど、あいつの返事はなかったんだ。僕が外を覗いてみた時には、もういなくなってた……」
 ぽんぽんと彼の背中を藍は叩いてやる。
「この何日かに、誰かがリディアと話をしているのを見たことは? でなければ誰かがこの辺をぶらついてたとか、いつもと違っていればどんなことでもいいんだけど」
 何か考え込むようにしばらく俯いていたジェイソンが顔を上げた。
「……貯蔵室の怪人。彼と話してる人がいた」
「貯蔵室の怪人?」
 藍は眉間に皺を寄せる。
「うん。いつもは誰も彼と話そうとはしないんだ。でも昨日も三日前も、彼と話をしに来てる人がいたよ」
 ジェイソンが首を傾げて考えた挙げ句に口にするからには、本当にこれが唯一のいつもと違うことなのだろう。
「ええと……貯蔵室の怪人ってのは?」
 苦笑して藍は尋ねた。子供というのはいつも、彼等にとってよく理解のできないたくさんの相手に、様々な渾名を付けるものだ。
「アレンさんとこの貯蔵室に住んでる男のこと。アレンさんちの奥さんが彼を貯蔵室の中に閉じ込めてるんだ。みんなその人のことを貯蔵室の怪人って呼んでる」
 そう言いながらジェイソンは身を乗り出して、向かいのブロックの家を指差した。
 一緒に身を乗り出した藍がちらりと下を見ると、ちょうどこちらを見上げているハイエルの視線とかち合った。更にはアニタがぺろりと舌を出して、その細い人差し指で喉を真横に掻き切る仕草をしているのに気付き、苦笑しながら身体を引っ込める。
「ジェイソン、俺は行かなきゃ」
 笑みを浮かべ、藍は彼の頭を撫でた。
「君はよくやってくれたよ。リディアのことは心配しないで。ただ、もう一回、ここ何日かにいつもと違ったことが起きてないかをよく考えてみて欲しいんだ。それで何か思い出したら、どんな時間でもかまわないからすぐに俺に知らせてくれる?」
「ずっとここにはいられないの?」
 大きく目を瞠ったジェイソンが、縋るように藍のジャケットの裾を掴む。
「ごめん。一緒にはいられないんだ。でもいつでも俺に電話していいからね」
 藍は笑って、取り出した名刺をジェイソンに手渡した。
「……僕が危ない時にも電話していいの?」
 やや潤んだ目をジェイソンがしばたたかせる。
「勿論だよ」
 彼の肩を抱き、藍は穏やかな笑みを向けた。
「でも今、この三つのブロックにはあっちにもこっちにも警察とFBIの捜査官がいる。だから、君に危険はないはずだよ?」
「うん」
 わかった、というようにジェイソンが頷く。
 彼の頭をもう一度撫で、藍はようやくツリーハウスを離れた。
 地面に下りる前、よく見知ったダニーの車がまさにここへとフルスピードで向かってきているのが、ツリーハウスの高さのおかげではるか彼方に見えた。
「状況は?」
 ハイエルが藍に確認する。口調も表情も彼の不機嫌さを露わにしていたが、彼がそんな風になっている原因が藍には全くわからなかった。
 口を開く前にアニタとアイコンタクトし、ハイエルがまだダニーのことを尋ねてはいないのを確かめる。
「屋内はブラウン班が処理中です。上にいるあの子はこの家の長男で、ジェイソン・マックス。向かいの家のあの貯蔵室の中に、閉じ込められている者がいると話してくれました。この何日か、たびたびその人物を訪ねてくる者もいたと。他には何も特別なことはなかったそうです」
 振り向いたハイエルが、向かいのブロックの該当する家を一瞥した。
「他に知らせることは?」
 その問いに藍は軽く肩を竦めてみせる。
「あんたがブラウンをあの家から蹴り出してくれるんなら、もしかすると他にも手掛かりが拾えるかもね」
「ふん。ダニーは?」
 ハイエルがそう言った時、ちょうど彼の携帯電話が鳴った。ハイエルはそれを取り出しナンバーを確認したが、通話ボタンを押そうとはしなかった。
「来てるよ。付近の状況を見に行ってもらったんだ」
 藍が答えたのと同時に、ダニーが飛び込んでくる。
 後ろに立ったダニーにハイエルがさっと振り向いたが、ダニーは慌てず騒がず状況を報告した。
「例の疑わしいキャンピングカーですが、六ブロック先で目撃したとの通報が入りました。現在は追跡中です」
 ハイエルが頷く。
「なら俺達のやることはなくなったな。ここはブラウンの現場だ。二十分前、バンク・オブ・アメリカが襲われたぞ」
 その知らせにアニタが無言でダニーとともに彼の車へと走りだす。藍は一瞬呆気に取られた。
「けど、この事件は……」
「俺が運転する」
 異議を唱えようとする藍をハイエルが容赦なく遮る。キーを寄越せと手を伸ばされたので、いやいやながらも従うしかない。
「……レイ。俺、あの子を知ってるんだよ」
 その言葉にもハイエルは藍をただちらりと見ただけだった。そして淡々と告げる。
「幼女の誘拐事件なんてヤマに関わるのに、俺達が不向きなのはお前もわかってるだろ」
 何か言い返したい気持ちを藍は我慢した。それがなぜなのかは勿論わかっている。この手の事件にアニタが全く向いていないせいだ。
 過去にあった類似の事件で三回が三回とも、犯人の逮捕後に彼女は暴行犯として訴えられている。そのうち一回などは犯人に重傷を負わせてしまい、危うく被告として法廷に引っ張り出されるところだった。もし彼女の後ろ盾がしっかりしていなければ、とっくに局から蹴り出されていただろう。
 藍は眉間に皺を寄せ、一瞬考えてからまた口を開いた。
「あれはみんな、いたずら目的のロリコンだっただろ。マックス夫人はメイシー議員の姪だ。今回はただの身代金目的かも」
 車のドアを開け、ハイエルが藍を睨む。
「ガイシャの姿が見えなくなって三時間だぞ。犯人が電話で身代金を要求するには充分だ。ついでに言うとだな、犯行に使用した車で目立つ街中を走る奴がいるか?」
 嘆息した藍は、彼に続いて車に乗り込んだ。ハイエルの言っていることはどちらも正しい。
 車を現場へ走らせながら、ハイエルがもう一度釘を刺す。
「このヤマに関わりたいんなら、強盗事件をさっさと解決するんだな」
「わかってる」
 溜め息混じりに藍は答えた。なぜかわからないが、今日は特別に事件の発生が多いなと思う。
 いつもなら同じ日に、すぐ近くのブロックで強盗と誘拐が同時に起こるなんてことはまずないのだ。