「うん。確かにむかついてた」
 イアンが真面目な顔になり、藍に向き直る。
「僕を信じてくれ。君は、ろくに知らない誰かに君の記録を見せたり、新たに観察や研究させたりなんかしたくないだろ?」
「……わかってる」
 また溜め息を漏らす藍に空気を変えようとイアンが笑みを浮かべた。
「ねえ? たまに一緒に呑みに行ってたあの頃みたいには僕達は戻れないのかな?」
 彼を見つめ返した藍は、少しして口を開く。
「イアン。……君は俺が過去に唯一心の中を打ち明けた相手だ。その君が俺の心理評価書を書くのに俺達の会話の中身を使ったんだぞ? だったら、昔みたいにしゃべろうって求める意図はいったいなんなんだ?」
 その言葉にイアンが眉間に皺を寄せた。エレベーターが地下駐車場に着き、彼は手を伸ばしてオープンボタンを押すと、藍を先に降りさせる。
「僕達が知り合って七年だ。ラン、君は知り合ってすぐに、僕がヒューズを目標にしてるってことを知ったんだし、遅かれ早かれ僕が彼の後を継ぐってのもわかってて、支持してくれたじゃないか。まさか君が応援してくれたのは、僕があの部屋を自分のものにすれば、君にカウンセリングは必要ないってすぐさま一筆書けるようになるから、ってわけじゃないよね?」
「そんなつもりはないよ」
 エレベーターを降りた藍は、顔に当たるややひんやりとした空気に一息吐き、朝の記憶に照らし合わせながら車へと向かった。駐車場を行ったり来たりするごとに足音がこだまする。
 ヒューズが死んだ時に、カウンセラーを変えてくれと申請するべきだったのに、そうしなかったことを藍は些か後悔し始めていた。
「けど、君はさっき僕にそれを要求しただろ」
 後ろについてきたイアンが言葉を続ける。
 足を止め、藍は心底から溜め息を吐いた。藍はこの広い駐車場が嫌いだった。これまでどうやっても一発で自分の車を探し出せた例がない、ということを措いてもだ。
「ラン、君が僕のことさえ拒むって言うんなら、君は一生過去の影の中に閉じ込められたままになるんだぞ」
 イアンの口調はひどく静かなものだった。
 藍は振り向き、友人をその目に捉えると仕方なく口を開いた。
「俺はどうやったら、君の言うその〝過去の影〟なんかに縛られていないって、君に信じさせることができるんだ?」
「それについて僕と話し合えよ。君の子供時代について。でも僕が指してるのは、その時期におけるいわゆる〝楽しかった〟一部分のことじゃないからね」
 そう付け加えながら、イアンは再び歩きだした藍の後について駐車場内を回った。藍がこの駐車場で車を探すのにそれなりに時間を要すると、彼は知っていたからだ。
 再度振り返ってイアンを見据え、藍は厳しい口調で問いただした。
「君はどうしてケヴィンとメアリーと過ごした俺の子供時代を楽しいものじゃなかったなんてほのめかすことができるんだ?」
 イアンが困ったように肩を竦める。
「そりゃメアリーが僕にそう言ったからだよ。彼女はひどく心配してた。ランは私には何も言おうとしないの、辛い時にも苦しい時にも、って」
「別にそれで、俺が幸せじゃなかったってことにはならないだろ?」
 イアンを睨みながら、藍は車のキーを引っ張り出してリモコンを操作した。
「あのねえ、十歳の子供ってのは自転車でこけても泣くんだよ。君は骨折するほど殴られても、自分でこけたってメアリーに笑って言ってたんだろ」
 そう話しながら涙を拭っていたメアリーの様子がイアンの脳裏には焼きついていた。どんな子供だってそんな風に子供時代を過ごすべきではない。
「俺はそういうひねた子供だったんだってことでいいだろ? 養子に貰われた中国人のガキなんて、俺でなくたって苛められる。俺はメアリーを心配させたくなかったんだ」
 思っていたのとはまるきり逆方向でライトを点滅させている自分の車を、藍はやっと見つけ出した。
 自分がいらいらしているのはわかっていた。一つはこの話題に対して。もう一つは上司であるハイエルより現場に遅く着くことで、彼に恥を掻かせる羽目になりそうだからだ。
 イアンはまだぴったりと後ろについてきていた。
「君は苦痛を彼女に訴えてよかったんだ。でも、夜中に四十度の熱を出したり、痛みで気が遠くなったりした時も、君は彼女を呼ばなかった」
 車の傍らに立った藍は頭を振り、諦めようとしないイアンを見やった。
「はいはい。君はいまやメアリーすら調査対象にしてるんだな?」
「彼女は自分から僕に会いに来たんだよ」
 一度言葉を切ったイアンが、藍の顔を見て口調を和らげる。
「メアリーは自分が君の母親として間違っていたんじゃないかって、心配してる」
「そんなことない。彼女は世界一の母親だ。俺はいつもそう言ってるのに、なんでかメアリーは信じてくれないんだ」
 メアリーのことを考えるだけで、藍はいつも温かい気持ちになれた。
 溜め息を吐いてイアンが答える。
「じゃあ君は? 君はどうして僕を信じないんだ? 僕は、ランを助けたいだけなのに」
 その言葉に沈黙した藍は、しばらく逡巡したのち、逃れるようにちらりと腕時計を見た。
「行かなきゃ」
「ラン!」
 藍が車に乗り込む寸前、イアンがその腕を引っ張る。
「レックス・ハイエル」
 そう一言告げたきり声を発しようとしないイアンを、どうしていいのかわからずに藍は凝視した。彼が何を言おうとしているのか、おおよそはわかっていた。
 イアンが言葉を続ける。
「これは友人としての提案だ。ハイエルから離れろ。彼の存在は君にとってなんのメリットもない。彼に関わったところで君の人生における三度目の失恋になるだけだぞ」
 イアンの手をそっと振り解いた藍は、低い声で早口に答えた。
「ハイエルはただの上司だ。あの時、君に話したことは覚えてる。彼の部下になれてすごくラッキーで、彼は尊敬に値する頭の上がらない上司だってね。けど、俺はハイエルを好きだとか、彼のベッドに潜り込みたいとかは言ってないだろ」
 一歩も退く気のなさそうな目でイアンが藍を見つめ返す。
「この前まで、僕は君が誰かを褒めるのを、たった二人についてしか聞いたことがなかった。そして、その二人は前後してどっちも君の恋人になって、しかも結果だって大して差がなかったじゃないか」
 しばらく彼を睨んでから、藍は口を開いた。
「質問は終わり? 行っていいかな?」
 にべもない藍にイアンは仕方なく手を離して数歩下がり、藍が車に乗り込みエンジンを掛けるのを許した。
 急速に遠ざかっていく藍の車を見送る。
 イアンにはわかっていた。自分の友人はまだ腹を立て続けている。しかも、恐ろしく長い間。

     ◇

 サイレンを鳴らしまくり、フルスピードで藍は目的地へと到着した。
 現場には人が溢れている。LA市警とFBI捜査官が周囲を探索し、四、五匹いる警察犬も臭いを嗅ぎ取るべく道端を行ったり来たりしていた。報道陣も既に押し合いへし合いしながら中継に備えて準備中だ。
 車を降り、現場へ入ると藍は同僚を探した。目の前の出動中の警備人数は予想していたよりも多い。
 この地区は養父の家がある辺りと雰囲気が似ている。距離もせいぜい二ブロック程度離れているくらいのはずだ。
 前方に立っている隣りのチームの捜査官が二人、藍が近付いてくるのを目にして、嘲笑うように声を上げる。
「よう、これはエイムス捜査官じゃないか? 聞けば心理評価書がパスしなかったとか。どうしたんだい? 自殺癖はまだ治らないのかい?」
 それには取り合わず、藍は軽く笑ってみせた。そのまま彼等を無視するつもりで歩きだした時、顔を上げた藍の目にこっちへ走り寄ってくる同僚のアニタの姿が飛び込む。
「あんたのママが昨日あたしに言ってたっけ。八年生になってもまだおねしょしてたんだって? 今は治ってるのかしらね?」
 黒いぴったりしたライダースーツを着たアニタは、色っぽくも冷たい笑みを浮かべると、軽口を叩いた男を睨んで言い放った。
 馬鹿にしたような笑みがその男の顔の上で凍りつく。何か言い返そうにも果たせず、男は腹立たしげに後ろを向いて去っていった。
 温和な藍よりアニタを怒らせた方が厄介だということはFBIのLA支局における周知の事実だ。
 噴き出しそうになるのを藍は堪えた。
「アン、状況は?」
「リディア・マックス、六歳。犬に餌をやりに中庭に行ったきりずっと戻ってこないのを不審に思った母親が、十分後に様子を見に行った時には、もう姿が見えなかったそうよ。現時点までで失踪から三時間と……」
 腕時計を見下ろしたアニタが、ついでに緩くカールしている長い黒髪を束ねながら続ける。
「二十八分ね。見慣れないワゴンタイプのキャンピングカーがこの家の前の路上に二十分くらい停まってるのを見たって言う目撃者がいるから、今はその車の行方を捜索中」
「ダニーは?」
 いなくなった少女の家へ向かいながら藍は辺りを幾度か見渡し、アニタの相棒が見当たらないのを確かめた。
「昨日の仕事が終わった後、夜にバーでホットなお相手を引っ掛けちゃってね。伝言メッセージはもう三回も残してるんだけど」
 どうしようもないと言いたげにアニタが軽く肩を竦める。
「ハイエルより前に到着できればベストだね」
 苦笑しながら、藍は少女の家へと足を進めた。
 この辺りの幾つかのブロックのどれもが、大体において平和で静かな方に相当するだろう。今通り過ぎてきた二つのブロックは住民の大半が警察OBなので、滅多に事件が起こらないのだ。こんな真っ昼間に、しかも警察が大勢いる地域で少女が連れ去られるなど、ほとんど想像もできない事態だ。
 綿密に計画を立てての犯行なのか、それともとっさの思いつきか?
 考え込みながら藍は少女の家に入り、中を観察した。近所に立ち並んでいる家々と同じようなよくある造りだった。室内のテーブル、椅子、書棚に並んでいる本。見たところどれも自分が育った養父の家のものと大して違わない。
 チェストの上を一杯にしている写真立てに目をやる。両親のもの、祖父母のもの、やや若いモノクロの写真は恐らく他の年配の親戚だろう。それから赤ん坊の写真。小さな兄妹のものだ。
 藍は眉を顰めてその写真の小さな男の子を見つめた。その子が自分の知っている相手だということに気付く。
「ラン、ちょっと問題があるみたいよ」
 アニタが突然藍に近付いてくると、そうささやいた。
「うん、けどちょっと待って、アン。俺、この子を知ってる」
 その写真立てを手に取りアニタを振り向いた時、見知った人物が家の奥に通じるドアから出てきた。隣りの班のボス─ニール・ブラウンだ。
「お前等、ここで何してる?」
「アンバーアラートの通知を受けまして」
 動じることなく、藍は写真立てをチェストの上に戻した。
「このヤマは俺達のものだ。お前等は帰っていい」
 そう言うと、出ていけというジェスチャーをブラウンがしてみせる。