5人の王(恵庭/ill.絵歩)公式サイト@ダリアカフェ

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 水を踏みつけるようにして近づいてくると、濡れた頭をてのひらでひとつかみにされた。ぐるりと向きを反転され、視界にはまたブロイスィッシュブラウが映った。シアンは体勢を崩して、岸に背中から倒れ込んだ。
 とっさに両ひじをついたが、ひじどころか尻まで草にこすれて痛みがはしる。
「なにを……ッ!」
 アージェントに右の足首をつかまれ、強引に横に開かされる。局部がひやりとした風にさらされた。呆然としていると、アージェントはシアンの耳元で(ささや)いた。
「今、前かがみになっている兵の顔を覚えておけ」
「は?」
「あいつらには一生、気を許すな。おまえの裸で自慰できる変態だ」
 アージェントの視線にならって湖沼に顔を向けると、ぎょっとしたように後ずさる兵たちが何人かいた。
 尻餅をついて両ひざを立てた自分の格好を見下ろして、血の気がひいた。羞恥も行き過ぎると身体が冷えるのだな、と他人事のように思う。両脚がきしんで上手く動かせない。すぐ隣にいる男に動揺していることだけは悟られたくなかったから、ちぎれそうなほど強く草を握りしめた。
「自慰なら実害はありません。味方の兵に懸想すると戦場で()()をはりたいという心理が働いて、通常よりも動きがよくなるそうです。他国には同性愛を推奨する軍もあるほど、その効果は認められています」
 アージェントは途方もない冗談を耳にしたように、冷めた目でシアンを見た。
「だからおまえは俺に懸想しているのか?」
「どこを聞き間違えたらそうなるのか教えてください」
「俺のことを愛しているくせに、なぜ同じような目で自分を見ている男を警戒しない? 鈍いにもほどがあるぞ」
「今の発言は訂正してください。おかしな勘違いをされていては気分が悪いです」
 心の底から男を呪った。
「自覚しろ」
 水で濡れたほおにアージェントの指先がふれた。はりついた髪をてのひらで()き上げられる。左隣にいる時は正面からシアンの顔をのぞき込もうとするので、それが見えない視界のせいだと知っていても少しだけ苦手だった。
「おまえは潔癖で、高慢で、自尊心のかたまりだ。男が屈服させたくなる顔をしている」
「騎馬団の連中よりもあなたのほうがよほど変態です」
 ばさりと服が降ってきた。見上げると、スクワルが痛みをこらえるようなしかめっ面をしていた。
「なんでもいいから、服を着て脚を閉じてからにしてくれ。あいつらに同情しそうになる」
 バシャンと派手に水が跳ねる音と、「ブラウ、しっかりしろ──ッ! うわっ、鼻血がっ」という叫びがあたりにこだました。


 火花が飛び散る。
 それはたとえではなく実際にオレンジ色の光は、暗い建物に咲く花のようだ。()(れつ)な花は高温であぶられた鉄のかたまりが打たれるたびに、幾重にもはじけた。
 ()()()で造られているのは武器や(よろい)。シアンは並べられた馬具を手に取って比べると、ひとつを選び出して、鍛冶場の責任者である鍛冶師に手渡した。馬のひづめにつけるための金具だ。
「良い出来です。同じものを二百作って、軍の騎馬団まで届けてください」
「はあ……しかし、今までのものより強度が劣りますが本当にいいんですか?」
「偵察隊のように、速度を求められる部隊でしか使いません。兵には金具の付け替え方を教えて、短期間で交換させるので劣化の問題はなくなります」
 それで鍛冶師は納得したようだった。
「他の作業を中断し、馬具を優先させてください。先日の馬はどこですか?」
 連れて来させた馬は偵察隊に適した駿(しゅん)()だ。試作を依頼した際に隊の用途ごとに馬の品種を変えていることを説明したのだ。重量や脚の強さ、ひづめの形状が違う。
 そして、従来のものとは変える必要があると言ったのだが、鍛冶師はシアンがなにを求めているのかわからなかったようで、実際に馬を連れてきて説明する羽目になった。
 鍛冶師は呆れたように、「馬具にそこまでこだわる人は初めてですよ」と、言った。
「その馬に乗って、軍舎に帰られるんですか?」
「近衛隊長に呼ばれているので王宮へ向かいます」
「はあ、王宮ですか」
 シアンの素性を『参謀本部の遣い』としか知らされていない鍛冶師は驚いたようだった。
「軍はまた、東方へ出向くのですか?」
「戦地で私が死んでも、馬具の件は他の者が引き継ぐ手はずになっています。あなたや鍛冶場の働きは無駄にはなりません」
「……そんな心配をしているわけじゃないのですが」
 痛ましいものを見るような視線を向けられて、少し戸惑った。
 シアンは顔をそらすと、軍の隊服を隠すためのマントを羽織った。頭からフードを被り、くちもとを隠すように留め具をとめた。
 軍の隊服を着て街を出歩く時は身元がわからないように気を付けている。戦況が悪い時は軍への風当たりの強さを避けるためで、戦況が良くなってからは情報(ろう)(えい)を避けるためだ。
 軍の参謀職ともなると、国内に侵入した敵国の兵に情報目当てに狙われる危険がある。東方ほどではないが王都も戦時中は治安がいいとは言えない。
 シアンが馬にまたがると、鍛冶場の外から騒がしい足音が近づいてきた。足音以外にかすかに金属音が混じっていたので、馬の手綱を引いて壁際に寄った。
 開け放たれた入口から緑色のフードを被った少年が駆け込んできた。
 工具の入った袋を胸に抱きしめている。金属音の正体がわかってシアンは警戒を解いた。
「おっさん、()(どこ)貸してくれよ! はしっこでもいいからさ!」
 鍛冶師はイノシシみたいに突進してきた小さな頭を押さえて、「急に入ってきたら危ないだろ」と叱った。
 少年のフードが外れた。赤味がかった薄茶色のふわふわした頭は前髪が目にかかるほど長く、あまり手入れされていないせいでもさりとした印象だ。背格好からするとシアンとさほど年は変わらないようだが、甲高い声できゃんきゃんわめく様子はまるきり子どもに見える。
「時間がないんだよっ。どこの鍛冶場も軍が独占して民間人は使えないの一点張りでさ。あったまくる!」
 軍を批判する言葉に、鍛冶師は馬上のシアンをちらりと気にして、少年の肩をつかんだ。
「悪いがここも当分、出入り禁止だ。それにおまえには自分の作業場があるだろ」
「ちょっと目を離したすきに火床に水ぶっかけられた。あいつら、おれのほうが良いもの作るかもしれないって、びびって邪魔ばっかりしやがる。おれのサイノウが怖いんだよ」
 高飛車な言い草に苛ついて、ついくちを挟んだ。
「ここは子どもの遊び場じゃない」
「はあ!?」
 少年は苛立った声を出して振り返ったが、大きな馬を見てびくりと身体を震わせた。全身をマントで包んだシアンの姿に(ひる)んだせいかもしれない。それでも精一杯の虚勢を張って「おい、誰が遊んでるって!?」と怒鳴った。
「あんたはおれがなにやってるかも知らないだろっ。遊びかどうかは見てから言えよ!」
「戦時に軍の依頼を優先させる、その程度の常識が理解できない子どものやることなど遊び以下だ」
「な……っ、戦争してんのがそんなに偉いのか!? 人が住むための家を作るより価値があるって胸張って言えるのかよっ」
「ば、バカッ! 申し訳ありません」
 鍛冶師は後ろから少年を羽交い絞めにして、暴れるのを取り押さえた。頭を無理やりに下げさせ、代わりに非礼を詫びる。シアンは馬の向きを変えて鍛冶場をあとにした。甲高いわめき声は外まで聞こえるほど響いていた。


 近衛隊長のバルナスと打ち合わせを終え、厩舎に繋いでいた馬を引き取りにいくと、ちょうど騎兵隊が戻ってくるところだった。
 王宮外での訓練からの帰りで、アージェントをはじめ全員が馬に乗っている。その中にエールがいるのに気づいてシアンは目を見張った。
「シャー! なにをなさっているのですか!?」
 エールはきょとんとした顔で、「騎兵隊の訓練を見学してきただけだよ?」と答えた。
「降りてください!」
「ええー、怒られるなら嫌だなあ」とくちびるを尖らせる。
「怒らないから、早く降りてください!」
 手を差し伸べると、エールはそれを断り、身軽に馬から飛び降りた。藍色の服についた砂を払い、「いつ来たの? シアンが来るなら王宮で待っていればよかったな」と、にこりとした。
「軍の宿舎に入ってから、全然、僕に会いに来てくれないよね。それなのに兄さんとはよく会ってるんだってね。声をかけてくれないなんてふたりとも意地悪だなあ」
「……そんなことは」
「シアン、誤魔化されるな」
 後頭部を軽く叩かれる。すぐに振り向いたが、アージェントは兵を引き連れて通り過ぎた後だった。
 エールが兄の後ろ姿に、「だって本当のことじゃないか! 兄さんばかりシアンを独り占めしてずるいよ」と言い返したが、男は振り返らなかった。
 機嫌の悪そうな声だったので、きっとエールが同行したことが気にくわなかったのだろう。過保護で(きょう)(りょう)な男らしい。
「謝ったのに大人げないなぁ。ちょっと黙ってついていったくらいでさ」
「黙って……? まさか王宮を出る時はひとりだったんですか?」
「少し前を近衛が走ってたし、街中で危険な目に遭ったりしないよ」
 ケロリと返されて、シアンは言葉を失った。エールは温和で素直な性格のわりに時おり突拍子もないことをする。
 ため息をつくと、エールの部屋に誘われた。断る理由もなく、少し後ろをついて歩いた。
「戦場に出るなら、僕も馬くらいは乗れるようにならないといけないからね」
「シャーに危険が及ぶことはありません」
「形式的なものだということはわかってるよ。軍の士気を高めるために掲げられて出向くんだから、僕はなにがあっても後衛からは動かない。でも、万が一ということがあるだろ?」
「万一など起こり得ません」
「そうかな。東方にいた頃、安全だって言われてた街も、ある日、とつぜん戦地になった。街の人の生と死を分けたものに大きな違いはなかったよ」
「お願いします。前線には出ようとしないでください」
 そっと忠告するとエールは目を丸くした。
「シアンって時々、兄さんとそっくりだよね。『訓練に参加して、まさか馬を走らせるつもりか?』って詰め寄られたよ」
「それは……副隊長のおっしゃるとおりです。シャーは時々、無茶をなさるので」
「あの人はさ、『騎兵隊が残り半分になったら、耳を塞いで逃げろ』って言うんだ。確かに参謀本部にいたら、どれくらいの数の兵が死んだとか全滅しそうだとか、そういう情報も入ってくるだろうからじっとしているのは辛いだろうな。兄さんもシアンもすごいよ」
 褒められるようなことではないし、エールには同じようになってほしくなかった。うまく説明できない気がして、シアンは黙っていた。
「兄さんにも言ったけど、騎馬の訓練がしたかったのは逃げる時のためだよ。もし何かあった時でも、僕は〈青の王〉として死ぬわけにはいかない。生き延びないといけないからね」
 気負ったところはなく天気の話でもしているように穏やかな口調だったが、それがエールの覚悟なのだろうと思った。

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