5人の王(恵庭/ill.絵歩)公式サイト@ダリアカフェ

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 陰口を叩かれている間、シアンはパンを(かじ)っていた。
 参謀本部にいた者たちが、食事を遠慮していたわけがわかった。
 だが、栄養の補給はどれほど悲しかろうが悔しかろうが、必要だ。食事がのどを通らなくなる、などと言っていては頭も働かなくなる。
 シアンは腹をたてていた。定時に合図がなく、通信兵が捕まったかもしれない、ということは参謀本部にいた者たち全員が想像していた。
 だが、伝令は伝わっていると考え、作戦を遂行させようとした。撤退、が彼らの出すもっとも嫌な指令だったからだ。
 自分が説得し、撤退していれば、これほどの被害を出さずにすんだはずだ。参謀本部を畳むなどというところまで追い込まれることもなかった。
 のどの奥になにかが詰まっているような気がした。「近衛の顔を立て、参謀本部に置いてやっているんだ。図に乗るな」と凄まれて、引き下がった自分に腹が立った。
 陰口は続いていた。
 シアンは銅でできた金属臭い器を持ち上げ、塩辛いだけのスープの残りを飲み干すと机に叩きつけた。
「言いたいことがあるなら早く済ませてくれ。食事が終われば私は部屋を出ていくぞ」
 陰口は止んだ。それ以外のざわめきもぴたりと止まった。男がひとり、立ち上がった。東方にはめずらしい黒髪に黒目で、所属を示す胸章は軍の騎馬団のひとつだった。二十代そこそこで騎馬団に配属されるのは、余程の実力者か、軍の上層部に(けい)(るい)がいる者だけだ。
「ずいぶんと、威勢がいいな、お嬢ちゃん」
 シアンが表情を動かさずにいると、「おまえ、あの有名な〈白銀王〉の息子だろう」と男は続けた。
「一兵卒になんか、気づかれるはずないと思っていたのか? 東方をめちゃくちゃにしてくれた男の息子が軍に加わるというなら、うわさにならないほうがおかしいだろう。高貴な血筋のお方は平和な頭を持っていらっしゃるようだ」
 (ちょう)(しょう)がひろがった。
「おまえたち参謀本部の指揮に従って重装歩兵は無駄死にし、この街は明日には滅びる。東方の民すべてに(あざけ)られた父親の恨みを晴らすことができて、さぞかし飯がうまいだろう」
 シアンが椅子を蹴ると男にぶつかって壊れた。挑発だとわかっていても身体を止められなかった。
 破片は机の上に散乱して、兵たちの食事をなぎ払った。食器が床に落ちると、けたたましい音が響き渡る。
「入口、見張っておけ!」
 黒髪の男が怒鳴り、大股で近づいてきて、シアンの胸倉をつかみ上げると、机に叩きつけようとした。
 太い腕をつかみ、跳躍すると男のこめかみを蹴った。相手は勢いよく倒れ込み、机の上を滑ったが、シアンも他の者に捕えられた。
 両腕を背中でひとつに押さえられ、顔を殴られる。
 血の味に顔をしかめると、こぶしが腹にめりこんだ。さっき食べたものを吐き出すことになった。野次が飛ぶ中で、シアンは背後にいる者のすねを蹴った。
 かかとで急所を狙うと、男はうめいて腕を放した。
 殴りかかってきた者を蹴り飛ばすと、腹がにぶく痛みを訴えた。数名で飛びかかられ、さすがに身動きがとれなくなる。
 あごの下に腕をまわされて持ち上げられると、つま先が浮いた。逃れるための隙がなかった。のどをぎりぎりと締め上げられて、息が止まってしまうかと思った。
 ふいに拘束がとかれた。
「──ッ!」
 どさりと床に落とされ、シアンはのどを押さえて咳き込んだ。無理に顔をあげると、見知った男が立っていた。
「スクワル近衛副隊長……!」
 集まっていた者たちは、たじろいだように動きを止めた。
「気がたっているのは、みな同じだ。若い兵をいじめて憂さ晴らしする元気があるなら、外でも走ってこい」
 黒髪の男の肩を叩き声をかけてから、「立てるか、シアン?」と見下ろした。
「私が先に手を出しました」
「そうか。兵として誇り高いのはけっこうだが、おまえから事情を聞くとは言っていない」
「申し訳ありません」
 片腕をつかまれ持ち上げられて、手近な椅子に座らされた。よりにもよって最初にぐちゃぐちゃにした机だった。スクワルは向かいに座るなり、ひじをついて「はあ」とため息をこぼした。
「まったく、シアンがこんなにやんちゃだったとはなあ……傷は? 治療が必要か?」
「問題ありません」
「散らかした片付けは、自分でできるな。他の者に迷惑をかけるなよ」
「はい。騒ぎを起こして、すみませんでした」
 すぐに掃除をはじめようと立ち上がりかけた。
「あー、待て、シアン。シャーがな、おまえのことを心配していたぞ。あまり無茶はするなよ」
 エールにはこのことを伝えないでほしかったが、そう頼むのはむしが良すぎる気がした。迷っているとスクワルの背後を近衛兵が通りすぎ、同じ机に座った。
「スクワル副隊長、シアンに絡んでた騎馬団のやつらは絞めておきますか?」
「いや、必要ない」
「了解。これ副隊長の分です。久々の熱い飯かと思って喜びましたが、具、入ってないですから露骨にがっかりしないでくださいよ」
 彼は当たり前のように、スクワルとシアンの前に食事を置いた。
 いつの間にか、まわりの席は近衛たちで埋まっており、スクワルと親しくしている者ばかりだったので、シアンは少しだけ気まずい思いをした。もう食べたからと断ることもできず、吐き出した分を補給するようにパンをくちにした。
 あごを動かすのも痛く、血の味しかしなかったが飲み込んだ。スクワルが神妙な声でシアンを(さと)した。
「ほとぼりがさめるまであいつらには近づくなよ。また喧嘩になりかねないからな」
「わかりました」
「ならいいが……いや、やっぱり、ねんのため今夜は俺の部屋に来い。寝ているところを襲われたら、助けも呼べないだろう」
 ガチャン、と皿の(こす)れる音がした。
「うっわ、やらしー」「上官という立場をカサにきて、やらしー」「部屋に連れ込んでなにするつもりなんすか、やらしー」「『シャーが心配して』なんてまわりくどいこと言わず、俺が心配なんだって言えばいいのに、やらしーくせに」と、まわりで好き放題言う小さな声がした。
「おまえら、全部聞こえてるぞ」
 スクワルは顔をしかめてみせたが、間延びした気安い言い方のせいで格好だけのことだとわかった。
 下世話な話題に悪意は感じられないが、あまり気分はよくなかった。スクワルがおかしな下心などなく心配してくれているのはわかっているが、手のかかる子どもに向けるような気遣いが余計に居たたまれない。
「聞こえるように言ってるんですよ。下手にシアンにちょっかいかけると、あいつにひねりつぶされますよ」
 スクワルより先に「どこをだ?」と別の者が突っ込む。
「そりゃあ、悪さしたところに決まってる」
「いや、あいつなら一箇所ってことはないな。全部だ、全部。原型とどめないくらいつぶすな。オレ、最近、あいつに睨まれただけでちびりそうになるよ」
「そりゃお前がマゾだからだろ。笑ってるところ見たか? 夢に出るぞ。東方に来てからは特に活き活きしてるだろ。手柄うんぬんよりも戦場が性に合ってるんだろうな。あれでまだ十代じゃ、ろくな大人にならねえなあ」
 くだらない茶々を入れあい、ひそめた笑いをもらす。大敗を喫した後とは思えない不謹慎な態度だったが、彼らにとっていつもどおりとも言えた。
 スクワルに部屋の場所を説明されて、シアンはうなずいた。だが行く気はなかった。自分の身は自分で守るのがここでは当たり前のことだった。


 シアンは暗闇を走っていた。古い物置のような建物の裏手にまわり込むと、身をひそめて足音をやり過ごす。食事の時にスクワルに言われたことが頭にこびりついて、与えられた部屋で眠る気になれなかった。
 外を歩くうちに、数時間前に殴り合ったばかりの騎馬団の黒髪の男に出くわした。相手は同じ団の仲間を引き連れていて、シアンは反射的に走り出した。
 ずいぶんと間の抜けた話で、その場にしゃがみ込むと、思わずため息をもらした。夜空には細い月が出ていたが、闇の中にいるように感じられる。
 街は静まり返っていて、灯りどころか人影もない。住民には、数ヶ月前に避難勧告が出されていた。いつ戦場になってもおかしくない場所なので、当然のことだ。それでも、日中には通りをまばらに民が行き来することもあり、彼らは明日からどうするのだろうとシアンは思っていた。
 その時、甲高い悲鳴が聞こえた。耳を澄ませたが、もうなにも聞こえなかった。シアンは左右を見まわして、ひとけがないことを確かめると通りに出た。
 道沿いに粗末な民家が連なっている。壁は石でできているが、屋根は布で覆われているだけだ。その朽ち方を見る限り、ずいぶんと前から人は住んでいないように思えた。
 少なくとも、この通りに参謀本部が設置されて以来、近くに誰も住んでいないことは確認済みだった。
 屋根から垂れた布が、一箇所だけ不自然に動いた。参謀本部を振り返ってから、人を呼ぶ間もないことを考え、シアンは通りを横切って建物に近づいた。腰に巻きつけたベルトをなぞって、上着に隠れた短剣を確かめた。
 目を凝らすと、中で白いものが動いた。
 それは女の脚で、上半身は服を()がれ、数人の男に押さえ込まれている。その光景を認めたとたん、手足がしびれたように動かなくなった。背後に人が近づいたことにも気づかず、あっけなくシアンは殴られて倒れ込んだ。
「なんだこいつは。見張ってろって言っただろう!」
 荒れた声がしたが、首の後ろに走った痛みのせいで、動くことができない。靴先で身体をあおむけに転がされると、「おい、こいつ兵だ」と驚いたような声がした。
「そりゃ、そうだろう。この街にいる男は軍だけだからな」
 男たちは押し殺した声音で言い合う。隙ができたせいで女が逃げようともがいたが、すぐに顔を殴られ動かなくなった。
 他にもふたりの女がいた。同じように腕を縛られ、くちには布をつめこまれている。泣いている者はいなかったが、うつろな顔をしていた。
 となりの建物とは、天井からつりさがった布で、仕切られているだけだ。
 暗がりのむこう側からも、くぐもった声が聞こえた。ひどい匂いがして、吐き気がした。目を動かし男たちが身につけている服の胸元を確かめた。
「自分たちが、なにをしているのかわかっているのか」
 シアンは片手をつき、身体を起こそうとしたが、すぐに背後の男に背中を踏みつけられて、地面に押し付けられた。
「このガキ、自分の立場がわかってないのか?」
「それは、おまえたちのほうだ。全員、第二騎馬団に属する兵だな。獣にも劣る真似をして、恥ずかしいとは思わないのか!?」
 ほおを張られた。髪をつかまれ、上向かされる。
「言うことと同じで、お高くとまった顔してるな。よく聞けよ? この街は明日、俺たちが引き上げれば敵の手に落ちる。そうなれば女たちは犯され殺される。その前に、少しくらいキモチイイ思いをしたってかまわないだろう」
 馬鹿にした言い方だったが、男は殺気立っていた。よどんだ視線で見つめ返され、肌がぞわりと粟立つ。
「軍の起こした不祥事は、青の宮殿の恥となる。死んで()びろ」
「はは、こいつ狂ってる」
 男は嫌な笑い方をした。
「おまえが俺たちの苛立ちをおさめてくれるってのなら、それでもいいんだぜ。婆さんでも勃つほど持て余してるんだ。女を助けたいんだろう? 代わりに(くわ)えてくれよ」
 シアンが黙って顔を見つめると、男はごくりとつばを飲み込んだ。髪をつかんでいた手が、少しだけゆるんだ。
「おい、腕を縛れ」
「本気かよ。ガキでも男だぞ」
 背中を押さえつけていた脚がわずかに浮いた。シアンは素早く左腕を背にまわして、短剣を引きぬいた。
 かたわらにいた男が気づき、シアンの手首をつかもうと動いた。遅い。反動をつけて身をよじると、上にいた男のひざに蹴りを叩き込む。相手がよろけたところでもう一度蹴って、今度は骨を折る感触を確かめた。

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