5人の王(恵庭/ill.絵歩)公式サイト@ダリアカフェ

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「この絵は、水の精霊です。背景に、雨のような波線が描かれているでしょう。サルタイアーの守り神と言われ、この絵と対になる、火の精霊の銅貨も作られています」
「火の精霊……」
「見せてさしあげたいのですが、わたくしは、水の精霊の銅貨しか持っていないのです」
 ルリは苦笑した。
「この銅貨と、シェブロン銀貨で取引することができます。青の銀貨1枚を銅貨1枚と替えてもらえば、サルタイアーで買いものができます」
 俺は銀貨をながめた。鈍く光るそれは、通貨以上に、工芸品としての魅力もそなえていた。
 ルリは差し上げますよと言った。
「ときおり行商の者が、髪飾りなどを売りにきますから、気にいりのものがあれば、買いあげられてはいかがですか?」
「え、いいえ。そんなことできません」
 あわてて手を横にふった。銀貨に興味はあったけれど、ものと換えるだけの価値のあるものを、ただでもらうわけにはいかなかった。
「では、わたくしはこの銀貨で、ヒソク様のお菓子を買うことにいたしましょう」
「え?」
「レモンのアイスクリームがいいですね。黒の銀貨ひとつで、売っていただけませんか?」
「だって、材料は調理場からいただいているのですよ。俺が銀貨をもらうのはおかしいです」
「わたくしは、アイスクリームの材料を買うのではなく、見たこともない菓子を作る技術と、手間に対価を支払うのです。黒の銀貨だけでは、ご不満ですか?」
 ぶんぶんと首を横にふる。
「では、取引は成立ですね」
 銀貨を手に握らされた。困り果ててルリを見たが、美しい顔でほほえんでいた。もらいすぎだということはわかっていたから、青銅のかけらのほうをつまんだ。
「あの、いただけるのなら、サルタイアーの銅貨ではだめでしょうか? めずらしいものなのですよね」
 ルリはじっと銅貨を見つめた。それから、われに返ったようにハッとして、「ごめんなさい」と言った。
「それは大切にしているので、差し上げられないのです。ずっと前に、アジュール様からいただいたものなのです」
「すみません、俺、そんなに大切なものだと知らずに、図々しくお願いしてしまって」
 ルリは首を横にふった。
「シャーはもうお忘れになってしまったようですから、いつまでも、わたくしがこれを持っていても、意味はないのかもしれません」
「そんなことありません!」
 俺のいきおいにルリはびっくりした。声をひそめて続けた。
「大切なものなら、手放してはいけないと思います」
 ルリは水の精霊の銅貨を見つめて、「そうですね」と、握りしめた。手を胸にあてる。
「ルリ様は本当に、シャーがお好きなのですね」
 言ってしまってから、俺は自分を殴りたくなった。無神経な発言にも、ルリは怒ったりしなかった。
「ええ」
 わずかにかなしそうな響きを含んでいたので、俺は胸がきりきりと痛んだ。
 銀貨にしるされた王の横顔は、すべて右を向いていた。
 どれも表情には乏しいけれど、見ようによっては、他を寄せつけない高貴さのあらわれにも思えた。
 青の王の肖像は鼻が高く、他の銀貨の王と違って、短髪だった。
「これ、シャーに似ていますね」
「ヒソク様もそう思われますか? わたくしも、子どもの頃、そう思いました。初代のアジュール王の肖像画が宝物庫に飾られているので、あとでご覧になられますか? シャーにそっくりで驚かれますよ」
「初代のアジュール王?」
「ええ」
「あの、どういう意味でしょうか? 最初の青の王は、シャーと同じお名前だったのですか」
 不思議に思って尋ねると、ルリはわずかに戸惑ってから、「いやだ」と言った。
「わたくし、大切な話をしていませんでしたね。『アジュール』は、代々青の王に引き継がれている名前です。王になられたら、もとの名は捨てて、アジュール王と名乗ることが義務付けられているのです」
「では、今までの青の王はすべて、アジュール王なのですか?」
 ええ、とルリは言った。
「シャーのことも、即位される前は、アージェント様と呼んでいましたよ」


 ルリの言っていた行商が、王宮にやってきたのは、しばらくたってからのことだった。
 赤の宮殿でギルと遅い朝食をとっていると、外から女たちのにぎやかな声が聞こえてきた。
 窓から身を乗り出すと、宮殿の廊下に女たちが集まり、行商が広げた布を取り囲んで、商品をためつすがめつしていた。
 侍従以外の男は、宮殿の中に上がることは許されていない。商人は廊下よりも一段低いところでひざまずきながら、女たちの問いに答えていた。
 布の上には書物らしきものもあったが、宝石に比べて地味なそれは、誰の手にも取られなかった。
 表紙に星図が描かれているのが見えて、俺はなんの本か目を凝らした。
「欲しいものがあるのか?」
 いつの間にか、ギルが後ろに立っていた。俺の頭のてっぺんにあごをのせていた。
 チビだということを強調されるような仕草に、俺はひょいと顔を上に向けた。そうすると、ギルはあっさりと顔を引いた。
「ヒソクの番だ」と、にっこり笑う。
「ずいぶんと悩まれていたわりに、うれしそうなのですね。俺、まずいところに置きましたか?」
「早く盤を見てみるといい」
 わくわくした声にうながされて、盤の前まで連れて行かれた。
 赤と黒の駒の位置を確認したが、困った局面ではなさそうだった。それどころか、布陣には少しの乱れもなく、ギルの動きを封じていた。
「あ」と、声をもらした。
 でたらめにたいこを打ち鳴らすように、急激に心臓の動きが速まる。そっと黒の駒にふれて、赤い王の駒の前に置いた。
「シャーマット」
「君の勝ちだ」
 ギルに言われて、俺はちょっと呆然とした。盤上をすみずみまでながめて、一枚の絵のようだなと思った。
「手がふるえてきました」
「はは、俺も最初の時はそうだった。ヒソクと同じくらいの年に、はじめてバーガンディーに勝ったけれど、その一勝をあげるまでに何年もかかってしまった。ヒソクのほうが断然すじがいい。これからもっと強くなるよ」
「ギル様は負けても、あまり口惜しそうではないのですね」
「そういえばおかしいな。バーガンディーの時はムキになったのだけれど。でも、君が勝ってもうれしい」
 くったくのない笑みで答えられる。
 手を抜かれたわけではないのなら、俺もうれしかった。じわじわと喜びがこみあげてきて、顔がにやけるのを我慢できなくなった。
 ほおをやわらかくつままれる。
「ちゃんと笑わないと、へんな顔になってるぞ」
 吹き出すと笑いが止まらなくなった。バカみたいに笑ってしまって、侍従が心配して部屋の様子をみにきたほどだった。
「行商の手が空いたら、部屋に来るように言ってくれないか」
 ギルが頼むと、侍従は頭を下げて部屋から出て行った。
 俺たちは机の前に座り直して盤をながめ、どのあたりで勝利を確信したかとか、ここに置いたのは間違いだったとか、試合をふり返ってわいわいと言いあった。
 俺はまだ興奮がさめなくて、話をしている間、ずっと顔がゆるんでいた。
 しばらくして、侍従が黄色の布を持って戻ってきた。行商が王の部屋に入ることはできないので、商品だけを持ってきたと言った。
 ギルは盤をそっとよけて、黄色の布を広げさせた。
「勝利の祝いに、ヒソクの欲しいものを贈ろう。さっき見ていたのは、この本だったか?」
 俺はあわてて、「そんなものはいりません」と言った。
 喜びに水をさされたような心持ちになった。
 俺はギルが、一緒に喜んでくれるだけでうれしかった。この上、なにかを贈られるのは、やりすぎだと思った。
 ギルは戸惑って首をかしげた。
「すまない。機嫌をそこねてしまったか?」
「ギル様が謝られることはないです」
 ぼそぼそと答える。
 俺は機嫌をとらなくてはならない女ではないし、小さな子どもでもない。一方的にものを与えてもらうような関係だと思うと、気がふさいだ。
 つまるところ、俺はいつの間にか赤の王と、友人のような関係になったと錯覚していたのだ。
 ギルは困ったように、俺の顔をのぞきこんできた。
 顔をそむけると、シャトランジの横に飛び乗ったシンクが、にゃあにゃあ鳴いた。しょぼくれたギルのかわりに、抗議しているようだった。
 俺は、はあとため息をついた。
「本を、見せていただいてもいいですか」
 ギルの顔が、ぱっと輝く。
 それを見て、やっぱりこの人は、王らしくないと思った。俺の知る王は、どちらも傲慢で、威圧感を周囲にまき散らしていた。ギルに同じ王の血が流れているとはとうてい思えなかった。
 ギルはシンクの頭をなでていた。活躍をたたえるように、大きなてのひらでなでまわすと、シンクも指先にじゃれついた。
 お祝いのつもりなら、俺にもそういうことをしてくれればいいのに。そう思ってから、少しくらりとした。
「星座の本だな。ヒソクはこういうのが好きなのか」

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