5人の王(恵庭/ill.絵歩)公式サイト@ダリアカフェ

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「シンクこっちだよ」
 穂先をふって誘えば、子猫の瞳はその動きに夢中になった。
 ギルの指先をなめるのをやめて、白いわたぼうしに飛びかかってきた。
 俺はじりじりと後ろに下がりながら、子猫を自分のほうに連れ戻した。
「それはずるくないか、ヒソク」
 ギルはあきれたように言った。
「先にシンクを取り上げたのはギル様ですよ。餌をあげるのは俺がやりたかったのに」
 くちをとがらせているうちに、シンクと名付けられた子猫は、わたぼうしをむしり始めた。
「わ、バカ、これは食べちゃダメだって。ご飯をもらったばかりだろ。食い意地がはってるんだから」
 あわてて引きはがすと、ギルはくすくすと笑った。
「仕方ないじゃないか。君が悩むのが長いから、シンクと遊ぶしかない。ほら、また君の番だよ」
 俺は席に戻った。向かいの椅子にはギルが座っている。あいだの盤を見下ろすと、馬頭を模した赤い駒の位置が、さっきまでと変わっていた。
 木でできた机にあごをのせて、「なんだか俺、全然シンクと遊べていません」と愚痴った。
「じゃあもう、シャトランジはやめにしようか」
 ギルは何でもないことみたいに言って、「ヒソクの11敗目ということでいいよな」と、いたずらっぽく言った。
「いいえ。絶対に途中じゃやめません。負けっぱなしでは、いつまでも強くなりませんから」
 俺は、ぐっと身体を起こして、駒をひとつひとつ確認した。
 シャトランジという遊びは、もともとは4人で行うものだ。今はギルと2人なので、赤と黒の駒だけを並べて、互いの王をとる戦いを繰り広げていた。
 王・大臣・象・馬・船以外の駒は、すべてバイダクという小さな四角で、兵をあらわしている。
 俺は黒のバイダクを、ひとつ前のマスに進めた。ちらりと、ギルの顔色をうかがった。ギルは盤上ではなく、俺を見ていた。黙って目を見つめ返したら、ギルは少しほほえんだ。
 さらさらとゆれる薄茶色の髪は、射しこむ光の加減で、いつもよりも赤みがかって見えた。
 ギルはフィールという象の形をした駒を動かし、黒のバイダクを跳ね飛ばした。
「悪くない位置だったんだけどな」
「俺もそう思います。結局、捨て駒になってしまいましたけど」
 ふうと息を吐いた。使えそうな手駒は減り続け、また、長々と悩むはめになりそうだった。
 シンクはわたぼうしに飽きたら、まるで母猫に甘えるように、ギルの脚に身体をすりつけていた。迷子になっていたのを見つけてもらった恩か、ギルになついていた。
 ギルは子猫を抱き上げて、薄めた牛の乳をひとくち与えた。一度に多くは飲めないので、そうやって何度も、かいがいしく餌をやっていた。
 俺はちらりと、机の端に寄せられた、木の盆に視線をやった。そちらには、人用の食事があった。ギルは視線に気づいて、「俺もちゃんと食べるよ」と苦笑した。
 盆の上から、丸いかたまりをひとつ手にとった。
「重みがあるのに、ずいぶんとやわらかいんだな。ふわふわしている」
「野菜と肉をよく混ぜたあんを、小麦粉を練った皮で包みました。蒸すと皮がやわらかくふくらむんです」
「こっちの緑色のも同じ形をしているけれど、小麦粉で作ったのか?」
「緑の葉をゆでた汁で、小麦粉を練りました。そちらは、野菜とキノコを多めに入れているので、あっさりしていますよ」
「ヒソクの料理はすごいな。目にもあざやかで、食欲をそそる」
 ギルは感心したようにそう言って、俺が作った食事を、ぱくぱくと食べた。匂いにつられた子猫が欲しがったので、ギルはほんの少しだけわけあたえた。
 ギルは俺が見ているのに気づいて、ひとかけちぎって、手を差し出した。
「とても美味しいよ」
 ほめられれば悪い気はしなくて、俺はくちびるに押し当てられた饅頭をくちにいれた。
「美味しいです」
 ギルはもうひとつかみ差し出してきた。俺のことを、シンクと同じように思っているのではないだろうか。
 疑わしい目で見れば、「もっと食べたいのか?」と、尋ねられた。悪気のない言い方に肩の力が抜けた。
 赤の宮殿を訪れるようになってから、毎日が穏やかだった。
 気さくな男は王だということを感じさせなくて、「ギル」と名前で呼んでも、気にした様子もない。
 ギルは見た目に似あわず大食漢で、めずらしい食べ物に目がなかった。
 用意した食事を、残さず食べてくれるのは、やはり気持ちのいいものだ。この分なら、怪我の回復に不安はなさそうだった。
「俺、そろそろ戻ります」と、立ち上がった。
「もう行くのか?」
「調理場が混む前に、夕食の準備をしなくちゃいけません。今夜はなにを召し上がりますか」
「また、麺が食べたいな。この間作ってくれたものは、本当に美味かった」
「わかりました。用意しておきますので、赤の侍従の方にお話を通しておいてください」
「ヒソクが持って来てくれないのか」
 ギルはきょとんとした顔で、俺を見上げた。
「すみません、今夜はルリ様のお部屋に呼ばれているんです。明日の昼に、またうかがいます」
「ルリ?」
「青の侍女をされている方です。寝込んでおられたのですが、近頃では元気になられて、ときどき、俺に本を読み聞かせてくれるのです」
「そうか。身体が治ったのなら良かった。きっと、ヒソクの食事のおかげだ。こんなに美味いものを毎日食べていたら、元気にもなる」
「ギル様はどうですか。俺が食事を持ってくるようになって、そろそろ、10日が経ちますけれど」
 もう大丈夫ですよね、とくちにすることは、この時間を失うことだったので、言えなかった。
「俺は、まだまだ調子が悪いから、ヒソクが必要だ」
 ギルは子どものように笑った。
「明日もこの続きからしよう。シャトランジの盤は、このままにしておくよ」
 気分がふわりと宙に浮かんだような気がして、部屋から出たあとも、少しくらくらした。


 ルリは手にした本をめくった。
「今夜はどこからお話ししましょうか」
「ルリ様、かへいかちって、どういうものでしょうか」
「貨幣価値ですか?」
 ルリは青い瞳を丸くして、急な質問に首をかしげた。
「そうですね。ヒソク様は銀貨をご覧になったことはありますか?」
「銀貨?」
 ルリは人差し指と親指で、小さな丸を作って見せた。
「これくらいの大きさで、ものを買う時に交換したことはありませんか」
「俺のいた街では、ものをもらう時には、別のなにかと交換していました」
 ルリは立ち上がって、棚から小さな皮の袋を取り出した。戻ってくると、床に座っている俺の前に、大きさの違う銀を、ひとつずつ並べた。
「銀貨は5種類あって、大きくなるにつれ、価値が上がっていきます。すべてに顔が描かれていますが、少しずつ違っていて、初代の5人の王を模しています」
 俺はひとつを手にとって、部屋のあかりにかざしてみた。
 首から上だけの肖像は、横顔だった。髪はまっすぐで、目は大きくつり上がっていた。
「初代の王は、ずいぶん怖い顔をしていますね」
 ルリはくすりと笑った。
「ヒソク様がご覧になっている銀貨は、初代パーディシャーだった、黒の王の肖像です。もっとも大きな銀貨で、黒の銀貨と呼ばれています。黒の銀貨は、一番小さな、紫の銀貨の3倍程度の大きさですが、価値は紫の銀貨百枚分もあります」
「百枚? 紫の銀貨では1個しか買えないものが、黒の銀貨だと百個も買えるのですか?」
 驚いて尋ねれば、ルリはおかしそうに笑った。
「不思議ですよね。かつては、この硬貨に含まれる銀と、同じだけの価値しか認められていませんでしたが、今は国の保証した価値がつけられています。それが、貨幣価値です」
 ルリは大きさの順に、銀貨を指さした。
「紫・青・赤・緑・黒と価値が大きくなっていきます。青の銀貨1枚を、1ペイルと呼んで、単位をあらわします。黒の銀貨1枚は50ペイルです。つまり、青の銀貨が?」
「50枚と同じです」
「紫の銀貨が百枚で、黒の銀貨1枚と同じです。紫の銀貨は、いくらになるかわかりますか?」
「え、ええ? 黒の銀貨は50ぺイルで、でも、紫の銀貨は青の銀貨より小さくて……」
 俺はもぞもぞと銀貨をさわって、数字を頭に思い浮かべた。
「青の銀貨が1ペイルだから、その半分ですか? でも、1ペイルより小さくなってしまうから、俺は間違えているでしょうか」
 ルリはよくできましたと言うようにほほえんで、「それで合っていますよ」と言った。
「紫の銀貨は、ハーフペイルと呼ばれ、2枚で1ペイルに相当します。この5種類の銀貨は、国名をとってシェブロン銀貨と呼ばれていて、他の国でもそれぞれの通貨を作っています」
 ルリは皮の袋から、青味がかった硬貨をとりだした。
「この銅貨は、シェブロンの隣国、サルタイアーのものです」
「銅ってこんな緑色ではなくて、赤茶色ではなかったでしょうか」
「青銅でつくられているのですよ。だから、緑のように見えるのですね」
 銅貨には、馬に乗り、弓をかまえた人物が描かれていた。
「これも、隣国の王なのですか?」

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