5人の王(恵庭/ill.絵歩)公式サイト@ダリアカフェ

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「挑発したいのなら残念だったな。今夜は別の女を抱きに行く。ここへはルリの様子を見に寄っただけだ」
 ふいに、言葉にならないほどの怒りがわいた。熱を持ったのは、俺ひとりだと思い知らされて、むなしさが増した。
 青の王は、興味を失った顔で俺を見た。
「それから、外ではもう少し、まともな本を持ち歩け。そんなものを読んでいたら、おまえが星見でないと、言いふらしているようなものだぞ」
 青の王が去ると、ふたたび夜の静けさが戻った。俺はひとりぼっちになると、大きな大きなため息をついた。
 床に落ちた本を拾い上げ、破れてしまっていないか、丁寧に中をたしかめる。
 手書きの文字でアジュール、と書きこまれたページにゆきあたった。双子座のそばに、『アジュールとアージェント』と書かれていた。


 いつもと違って、青の宮殿はあわただしい雰囲気だった。
 盆に載せた朝の食事とともに、ルリの部屋に向かうと、部屋の外には何度か顔をあわせたことのある侍従が待っていた。
「お待ちください。いまは中に、シャーがおいでです」
「ルリ様と会っているのですね。この食事、あとでルリ様に食べていただきたいので、あなたに頼んでもいいでしょうか」
「もちろんです」
 食事だけ任せると、部屋の中を見ずにその場をあとにした。
 俺には星見として部屋が与えられていたけれど、もっぱらルリの部屋にいることが多かったので、眠るくらいしかそこを使わなかった。することのない俺には、広すぎる部屋だ。
 床に紙を広げ、寝転がって書き物を始めた。文字を読むには、自分でも書いてみるのがいいとルリに言われたので、思いついた単語を書き連ねた。
 身の回りのものや食べ物、それから人の名前などだ。
「ヒソク、ルリ、シアン、アジュール、アージェント……」
 アージェントという人物は、俺の知るかぎり、青の宮殿にはいない。
 侍従にきいてみたかったが、青の王やシアンに伝われば、余計な詮索をしたと機嫌をそこなってしまうだろう。彼らに直接尋ねるのは、さらに勇気がいった。
 ため息をついて、調べることをあきらめた。
 気分を変えようと、紙に12の星の星図を描きだした。点と線で結ばれた季節ごとの星を、つながりのあるものとして描けないかと思いついた。
 少しずつ位置を変えて書き直すことに夢中になっていると、「ヒソク様」と、声をかけられた。
 寝転んだ格好で顔を上げると、渋い表情のシアンが、部屋の前に立っていた。
 俺はあわててその場に飛び起き、まくれていた服のすそを正して、シアンを迎え入れた。
「自室とはいえ、幼い子どものように寝転がるのは、術師の行動としてふさわしくありません。立場を理解してもらわないと困ります」
「……申し訳ありません」
 俺がうなだれると、これみよがしなため息が聞こえた。
 ファウンテンへ行った日以来、シアンは俺のことを「ヒソク様」と、様をつけて呼ぶ。
 青の術師というのが、宮殿ではそれなりの地位にあることを思い知らされ、同時に偽物の星見であることを責められているような気がした。
「星図をつくっていたのですか?」
 シアンは床に散らばった紙を見て、そう尋ねた。
「いえ、あの、意味のないものです」
 俺はらくがきのような絵を見られてあわてたが、シアンは紙を拾い上げた。
「円で描くといい。方位と時刻を書けば、もう少し意味のあるものになる。天体の運行をあらわすことができるようになれば、役に立つだろう。天文が読めれば、これから先の天候がわかるようになる」
「もしかして、円で描かれた星図は、すでに作られているのでしょうか」
「出回っているようなものではない。あなたは自分の力でこれを完成させてみなさい。いい勉強になる」
「星図ができたら、見ていただけますか?」
「私が?」
「だって、シアン様が円の星図を作られたのでしょう? 出回っているものではないって、そういう意味じゃないのですか」
 シアンは少しの間のあと、「思いのほか、察しがいい」と言った。
「文字の練習もおろそかにしなければ、時間のある時に見てやってもかまわない」
「はい!」
 シアンは星の話にも詳しいようだったので、教わることを約束してくれたのはうれしかった。
「ところで」と、シアンは言った。
「シャーは明日よりしばらくの間、西方へ出向かれる。私も同行するので、その間にティンクチャーが消えるようなことがあれば、自室から出ないようにしなさい。王宮には、星見に興味をしめす者が少なくない」
 シアンは、「部屋には警備兵をつけておく」と言った。
 俺の胸の、青いしるしはわずかに薄れていた。それが、王宮ではどういうことを招くのか考えて、少しだけおそろしくなった。
「西方で何かあったのですか?」
 シアンはちらりと俺を見て、「民の反乱だ」と答えた。
「反乱、ですか」
「西方を治めていたのは、亡くなった緑の方だ。あの土地は貧しい者が多い。諸侯との貧富差も激しいため、鬱憤がたまっていたのだろう。王が亡くなったことでさらに治安が乱れ、狼藉をはたらく者も出てきている」
 俺は、西方を思い出した。
 それほどひどい場所だとは思ってもみなかった。
「西方の制圧には、赤の方が出向いていたが、怪我を負って王宮に戻ることになった。今夜には王宮に戻るので、それを待って、私たちは明朝に出立する」
 俺は息をのんだ。
「王が怪我をするなんて、危険ではないのですか?」
「赤の方は武力での制圧を好まず、自ら暴徒たちを説き伏せようとしたのだ」
 それはとても、正しい行いのように思えた。けれど、シアンは「甘い方だ」と吐き捨てた。
「西方は戦場と化している。苦労知らずの赤の方が、事態をおさめることなど、初めから無理だったのだ」
「苦労知らず?」
「赤の方は、シェブロンで一番豊かな南方を治めている。隣国との交易も盛んで、民の気性も穏やかだ。だから、反逆する民というものを知らない。南方の王の登場など、荒れた土地で暮らす民の憤りを、刺激するだけだ」


 陽が傾く頃、俺は調理場へ向かった。ルリのために食事を用意するのが、日課になっていた。
 調理人たちに、俺のことがどのように伝わったのかはわからない。別の生き物がまぎれ込んだような視線を向けるだけで、誰も俺に話しかけようとはしなかった。
 はじめに会った年嵩の調理人だけは、俺に憐みの目を向けた。
「姫さん、なにをやって、こんな下働きみたいなことをさせられているんですか」と、心配してくれた。
「ハクさん、俺は別にへましたわけじゃなくて、自分からここで料理を作らせてもらっているんです」
 オリーブの実をすりつぶしながら、俺は答えた。
「世話になっていた家でも、食事を作っていたから慣れています」
「そりゃまあ、ずいぶん手慣れたものですけどねえ、本当ならハリームで侍従をはべらせているような方が、あたしらみたいのと同じ仕事をさせられてるなんて、不憫で仕方ない。見てられませんよ」
 口調は最初に会った時よりくだけたもので、子どもを心配する親のようだった。
「オリーブオイルだって、冷暗所にたくさんあるんだから、毎日、手間かけて搾らなくてもいいじゃないですか」
「でも宮殿に届くオリーブオイルは、高級だから使うなと、みんなに言われているし」
「あいつらは、姫さんのことをどう扱っていいかわからずに、つんけんしてるだけですよ」
 ハクは横目で、他の調理人を見た。
「あ、でもさっき、動物のあぶらなら使ってもいいと、言ってくれたんです。なんだか複雑な顔をしてましたけど」
 はは、と俺が笑うと、ハクは眉尻をさげて、俺を見た。
「そんな細い腕で、すりつぶすのを見ていたら、同情するやつが出てきてもおかしくないですよ。油なんか違わないでしょうに、オリーブにこだわって、他のものは使おうとしないんだから。ガンコで変わり者の姫さんだ」
「医師にきいたら、肌に塗るには、これのほうがいいみたいです。弱ったお腹にもいいので、料理にも使いたいし。全然、たいしたことないです」
 手間がかかっても、ルリのためになるものが作れるのなら、本当にたいしたことではなかった。
 液体を陶器のびんにそそいで、ふたをした。時間が経てば、水と油に分離されているはずだ。冷暗所に持っていこうとした。
 その時、調理場に男が飛び込んできた。甲冑をつけた兵だった。
「西方へ行っていた赤の近衛兵と侍従たちが戻ってきた。いますぐ、百人分の食事の支度をして、用意ができたものから大広間に届けるんだ」
 調理場は、夕餉の準備を終えてのんびりした雰囲気だったが、それを聞いてあわただしくなった。
「参ったな、到着は明後日じゃなかったのか。誰か詰め所にいって早番の連中を呼び戻してこい」と、ハクが怒鳴った。
「だめだ。ほとんどが明日の宴席のために、西の調理場に駆り出されている。百人なんて、これだけの人手で追いつくのか……」
 宮殿の料理には、作り置きがないので、いちからの作業になるはずだった。
 俺は邪魔になりそうな腕輪をはずし、棚のすみに置いた。腕まくりをする。
「ハクさん、俺も手伝います。下ごしらえでしたら、俺にもできると思います」
「は? 宮殿には戻らなくて大丈夫なんですか。すぐに夜になりますよ」
「ルリ様の夕食でしたら、もう食べていただきましたから、大丈夫です。なにからやりましょうか」
 ハクはしばらく逡巡したが、「仕方ない」と言った。
「くれぐれも、刃物や火には気をつけてくださいよ。姫さんになにかあったら大変ですからね」
「わかりました」
 さっそくハクの指示で、野菜を切り始める。
 独特の大きな包丁は扱いづらかったが、慣れてしまえば、ナイフとそう変わらなかった。
 火を起こしている者に声をかけて、湯を沸かすのを手伝うと、男は俺が声をかけたのが気にいらなかったのか、ふいと背を向けてしまった。

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